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■堕ちた天使の舞う夜に:長良川広久さん作

エピローグ・後

 ようやく空になったグラスをコトンと置いて、アンジェリカはかすかに首を振る。そして、どこか陰のある口元だけの微笑を北斗に向けて言った。
「いいえ、もうアメリカには戻らないわ。……というより、戻れないのよね。
 実は私、アメリカでは指名手配されてるのよ。ミジィを追いかけて組織とやり合う中で、いろいろとやらかしちゃってね」
「そんな状態で日本へ? よく飛行機を使えたな」
「そういうときの常套手段くらい想像しなさいよ、北斗。それでもポリスマン?」
 やれやれと言わんばかりの苦笑を見せながら、アンジェリカは自分のセカンドバッグから取り出したパスポートを開いてみせる。
「えーと……アンナ・ジェファーソン? アリゾナ州にて発行? LAはカリフォルニア州だろ!? なんだこれ、顔写真とイニシャル以外全部でたらめじゃないか!」
「偽名パスポートか。アメリカは広すぎる上に州法がそれぞれ違っていて戸籍を作れないから、虚偽申請は日本より遥かに簡単だが」
 セルヒオはこの手のものを見慣れているのか、北斗が目を丸くしている横で平然とパスポートの記述内容を目で追っていた。アンジェリカはその言葉にうなずく。
「そうでもしないと日本に来られなかったの。それに、そこまでしてでも日本に来なければならない理由が私にはあったから。
 ……でも、もうその件は終わったし、それにこの東京でも手榴弾やらショットガンやらいろんな所で振り回したから、あまり長居はできないわ。
 確か日本って、まだ死刑存続してたわよね。私のやったことは大量殺人には違いないけど、だからってあんな連中を殺したことを罪に問われて死刑になるなんて願い下げよ」
「……まあ、警察も必死に捜査してはいるけど、上の方から変な妨害もあるし、君の存在に辿り着くまでにはまだまだ時間がかかると思うよ。
 おまけに偽名とはいえ正規の方法で取得したパスポートだ、アシがつく前に出国してしまえば誰も追ってこられないとは思うけど……でもアンジェリカ、アメリカでも日本でもないとしたら、いったいどこへ行くんだ?」
「フランス。ブルゴーニュ地方のド田舎」
「……は?」
 全く予想外の返答にきょとんとなって固まる北斗。その様子を見てエレーヌがクスクスと笑った。そしてアンジェリカの話を引き継ぐ。
「私の父はワイン農家のかたわら、フランス各地のギルドから人材を引き受けて育成していますの。
 アンジェリカさんは銃の扱いに慣れている上、《悪魔の銃》の精神支配に1ヶ月近くも抵抗し続けた事実がありますわ。霊的な攻撃に対抗する素質が非常に高いのでしょう。父の元で知識と経験を積めば、きっと有能なメンバーになれますわ」
「えーと、エレーヌさんのお父さんってことは、もしかして」
「ええ、ダンピールですわ。魔法の腕はジェニファーと互角、さらに超能力者としてもフランスのギルドでは知れ渡っていますの」
 ジェニファーと互角ということは、つまりギルドマスター級、エレーヌよりも数段上の実力ということになる。驚くべきことをさらりと言ったエレーヌが目線で促すと、アンジェリカはブロンドの前髪を軽くかき上げて、照れくさそうに言葉を継ぐ。
「そういうことだから、今後はずっと『アンナ・ジェファーソン』としてフランスで暮らすことになると思うの。
 アメリカには帰れないし、たとえ指名手配されていなくても、いい思い出のない日本には二度と来たくないからね。
 アンジェリカと呼ばれるのも、きっとあなたたちが最後――だから日本を発つ前に、こうしてセルヒオや北斗とちゃんと話す機会を作ってくれたことには、本当に感謝しているわ」
「どうしたんだ急に。そんなもう二度と会えないような言い方するなよ、今の時代メールでいくらでも連絡取れるんだし」
 急に殊勝な物言いをしだしたアンジェリカの様子に、北斗はうまい受け答えが思いつかず戸惑っている。
 それでも北斗の気遣いは伝わったらしく、アンジェリカはほんの少しの哀しみを宿した微笑を北斗に向けて、こう続けた。
「ありがとう、北斗。……でも、そのメールも発信者名は『アンナ・ジェファーソン』なのよ。
 メールなんてどこで監視されてるかわからないから、LAに残してきた家族に連絡を取ることもできない。『アンジェリカ・ジョンストン』が存在したことを、この東京で何をしたかを、そしてこの先どこでどうするのかを知っていてくれるのは、あなたたちだけになるわ。それはやっぱり寂しいものよ」
 そのとき、しばらく黙ってやりとりに耳を傾けていたジェニファーが、ふとグラスを置いて真顔に戻った。
「じゃあアンジェリカ、少しでも寂しさが紛れるように、私たちからの餞別。マスター、持ってきて」
 呼ばれてテーブル席にやってきた熊岡は、何やら布に包まれた塊をアンジェリカの前に置いた。ゴトリという鈍い音からして、それなりに重みと大きさのあるものだ。
 その布包みとジェニファーの顔とを交互に見比べていたアンジェリカが、やがて決心したかのように包みを開くが――ほんの少し開いたところでその手が止まり、形良い眉が小さく引きつった。
 喉の奥で小さなうめきを押し殺し、もともと吊り気味の青い瞳をさらに吊り上げてジェニファーの目を見つめる。
「……ミズ・リン。これ、どういうこと?」
「刺激が強かったかしら? でも、私なりにちゃんと考えがあるのよ」
 涼しげな顔で受け流すジェニファーだが、アンジェリカの瞳には怒りとも哀しみとも疑念ともつかない複雑な感情が見え隠れしている。ただごとでないと感じた北斗が手を伸ばし、包みを完全に開くと、そこには。
「ちょっ……ジェニファーさん! これは……!?」
「……何のつもりだ、ジェニファー」
 銃身には鳥の翼のレリーフ、そして瞼を閉じた美しい女性の顔――確かに破壊したはずの《悪魔の銃》が、包みの中に鎮座していた。
 北斗は驚愕に目をむき、セルヒオは不愉快そうに小さく頬を歪めた。
 しかしエレーヌは意外にも、冷静にその《悪魔の銃》を見つめながらジェニファーに尋ねる。
「レプリカの処置は、相当に時間がかかるという話ではなかったかしら? それをたったの一週間で完成させたの?」
「もちろん全部じゃないわ。突貫作業でなんとか3丁だけ間に合わせたのよ。これをアンジェリカに渡せるのは今しかないもの」
「レ、レプリカ? って、さっきギルドで押収したって言ってたやつですか? 何十丁も作られてたっていう……」
「そうよ。レプリカとはいえ、それなりの腕前の魔法使い2人が魂を込めた――文字通り、人造精霊という魂を込めたものだから、その破壊力は並みのマジックアイテムとは比較にならないわ。
 戦意、闘志、あるいは殺意――そういった人間の意志の力を、魔法的なエネルギーに変換し圧縮して撃ち出す銃。変質する前の《天使の銃》によく似ているわね。
 精神力を削って弾丸に変えるようなものだから、相当な素質と鍛錬が必要になるけど、銃の天敵ともいえる霊体の敵と戦うときには、銀の弾丸よりはるかに強力な効果を発揮するはずよ。
 ただし、そのままで使うとまた《悪魔の銃》みたいに悪い方向へ変質する恐れがあるから、丁寧に魔法的処置を施して中身の人造精霊を安定化させたものしか実戦投入は許可できないけど。
 そういう意味での戒めを込めて、名前は『ソウルイーター』と付けたわ。
 もちろん実際に魂を喰らうことは絶対にないけど、ヘンな期待やデマがこめられないような名前にしておく方がいいと思って」
「だから、これがどうして私のためなのかと聞いているのよ」
 硬い声でくってかかるアンジェリカに対し、ジェニファーは逃げることなくその瞳を正面から見つめ返す。
「一つは、フランスでギルドメンバーとしての修行を終えてから実際に使ってもらうため。
 もう一つは、辛い過去と常に向き合うことで、憎しみに呑み込まれないようにするため」
 黒曜石とターコイズ、宝石のような二対の瞳が、じっと互いの奥の奥を探り合う。
「あなたがこの事件を通して失ったものの大きさ、それは私もセルヒオから聞いて知っているわ。
 そして、大きなものを失った人間の心は例外なく不安定となり、闇へと、堕落へと引かれやすくなる。
 そうした人間を、私は何人も見てきたわ。絶望と憎悪の中、仮初めの力にすがり、もう少しで取り返しのつかない過ちを犯してしまうところだった人間もよく知っている。
 あなたがマフィア相手にやってきた殺戮は、半分は《悪魔の銃》のせいだとしても、残り半分はあなたの焦りと憎しみが引き起こしたものなのよ」
「……くっ……」
 それまでとはうって変わって、黒曜石の瞳に冷厳な光を宿したジェニファーの指摘に、アンジェリカは唇を噛むしかない。
 わずかな間を置いて、さらにジェニファーが続ける――しかしその瞳から険しい色は消え、代わって子供を穏やかに見守る母親のような優しい光が宿っていた。
「だから、事件のすべてを――憎しみ、哀しみ、後悔、そして未来への決意まで含めて、あなたがこの事件を通して抱いたすべての思いが集約されたシンボルとして、あなたには常にこのソウルイーターを持っていてもらいたいのよ。
 闇に堕ちないための、魂の道標として」
「道標……この《悪魔の銃》が……?」
 うつむいたアンジェリカの肩が、きつく噛みしめた唇が、かすかに震えている。
「……ミジィ……」
 もう二度と会うことのない妹の名を、誰にも聞こえないほどの小さな声で呟いて――アンジェリカは唇をグッと引き結び、顔を上げた。 真正面からジェニファーの顔を見て、静かに、しかし決然と告げる。
「いいわ、ミズ・リン。ずいぶんときつい餞別だけど、忠告として受け取っておく」
「フフッ、よろしい。向こうについたら、とりあえずエレーヌのお父様に預かってもらいなさい。あなたがそれを使いこなせると判断したときに返してくれるだろうから。
 さて、アンジェリカが受け取ってくれたのなら――マスター、追加お願いね」
「おう」
 熊岡が持ってきたのは、4杯目のブルー・ムーンではなかった。
 分厚い手で鷲掴みにした、2丁のソウルイーター。それを無造作にセルヒオと北斗の前に置く。
「え!? あの、ジェニファーさん? 俺にですか?」
「……いつものことだが、考えの読めないギルドマスターだ。説明を」
「これは純粋に、ギルドメンバーとしての事件解決報酬よ。
 最初に《天使の銃》の闇オークションの話を持ちかけたマスターも、エレーヌに《悪魔の銃》の探索を依頼した私も、まさかここまで大きな事件に発展するとは予想できなかったわ。
 もちろんビットも相応の額を支給するけど、それこそ命がけの依頼になってしまったから、報酬にはそれだけの危険に見合うレアものを用意しないとね。
 北斗さんには卓越した射撃センスと、霊感体質という特別な素質がある。セルヒオには基礎のしっかりした戦闘スキルと実戦経験、それに悪魔の精神攻撃すら独力で撥ねのけた強靭な精神力がある。たぶん2人とも、特別に訓練しなくても今の実力で扱えるはずよ。
 エレーヌは銃なんて握ったことないだろうから、私の呪文書から好きな呪文を1つ、エレーヌのに移してあげるわ」
 そして、改めてアンジェリカに向き直ると、先程と同じ優しい笑みを見せてこう付け加えた。
「こうすれば、あなたが持っているのと同じものをこのふたりも持っていることになる。実の家族ではなくても、それもまたひとつの絆だと思わない?
 たとえこの先、死ぬまで偽名で暮らさなければならないとしても、心に刻まれた思い出を、そして思い出を象徴するアイテムを共有している限りは、あなたは独りではないわ」
「そうね……そうよね。ありがとう、ミズ・リン」
「ジェニファーでいいわよ。さ、出発の準備もあるし、そろそろおいとましましょ、アンジェリカ」
「……ええ。マスター、いいお酒だったわ。きっと忘れない」
 熊岡がカウンターの奥で手を軽く上げるのを確認し、立ち上がるジェニファーとアンジェリカ。
「北斗、今までポリスマンって馬鹿にしててごめんなさい。ギルドメンバーとしてもオフィサーとしても、頑張ってね」
「ありがとう、アンジェリカ。フランスでも元気で」
 北斗と握手したあと、セルヒオと向かい合ったアンジェリカは、何かを言いよどむかのように少し視線を逸らした。
「……セルヒオ」
「どうした?」
 長身のセルヒオを見上げたターコイズブルーの瞳が、ほんの少し潤んで……しかしアンジェリカは、なんでもないと静かに微笑んで右手を差し出した。
「……いいえ、いいの。グラシアス、セニョール――アディオス」
「アディオス、セニョリータ」
 しっかりと握手を交わして、アンジェリカはジェニファーと共に去っていった。
 その背中を見送って、店のドアが閉まった後、セルヒオが肩越しに北斗へ振り向く。
「大変な事件だったな。またお前と組むことがあったら、よろしく頼む」
「ああ、できればこんな死にそうな目に遭う事件じゃないのがいいけど」
「フッ、それはそうだ――グラシアス、アミーゴ。チャオ」
「またな」
 セルヒオはかすかな微笑みを残して、酒の影響など全く見えないしっかりとした足取りで立ち去った。
 ややあって、テーブルについたままその様子を眺めていたエレーヌが、にっこりと微笑む。
「? どうしたんです、そんな嬉しそうにして?」
「だって、セルヒオが『ありがとう』と言ったのも『親友』と呼んだのも、それに『じゃあな』なんて気安く挨拶したのも、私が知る限り北斗さんが初めてなんですもの」
「そうなんですか?」
「ええ。日本語で言うのは照れがあるから、スペイン語で言ってすぐ逃げてしまったのでしょうけれど……ようやく彼も、他人を認められる心の余裕を取り戻し始めたのだと思いますわ」
「普段は表情一つ変えないあいつに認められても、あんまり嬉しいとは思いませんけどね……まあ、仏頂面で頭から拒絶されないだけでも、多少は付き合いやすいと思うことにしますよ」
 言葉とは違って、北斗の顔にはどこか満足げな笑みが浮かんでいる。
 陰惨な影のつきまとう、命がけの事件だった。だが終わり方としては悪くない。
 アンジェリカもセルヒオも、あの様子なら心の奥に抱える傷跡を乗り越えていけるだろう。
 だから今の北斗は、気分良くごく自然にこんなセリフを口にすることもできた。
「――もう少し、飲みませんか?」
「ええ、喜んでお付き合いしますわ」

 1300万の命と意志とをその懐に抱く都市、東京。
 その影で超常の事件が起こり続ける限り、ギルドメンバーの戦いは続く――。


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