■堕ちた天使の舞う夜に:長良川広久さん作第6章 ありがとう…いてくれてよかった【5】
「ッハァッ、ハァッ……ゴホッ、ごふッ……ハァッ、はぁッ……」
「エ、エレーヌさん!? しっかり!」 何キロも全力疾走を続けたかのように、咳き込みながら地面に両手をついて荒い呼吸を繰り返すエレーヌ。あまりにも苦しそうなその表情に、北斗が慌ててその細い肩を支える。 直前に数十人分の魂を取り込み、強大な魔力を発散していた悪魔を押さえつけ続けるのは、いかなベテラン魔法使いといえどもかなりの難業だったらしい。立っていることもできないほど消耗しているエレーヌの姿など、北斗もセルヒオも今まで一度も見たことがなかった。 北斗に支えられて地面に座り直したエレーヌが、切れ切れながらもどうにか応える。 「ハァ、ハァ、ハァッ……だっ、だいじょうぶ、ですわ……。 でも、2、3日は、魔法は……はぁッ、使えなさ、そう、ですわね……」 「エレーヌさん、今はしゃべらないで、息を整えて。俺たち、勝ったんですから」 背中を支えながら気遣う北斗の言葉に、エレーヌはかすかにかぶりを振った。 「けれど……これまでに、あまりにも、たくさんの犠牲が……。 エンジェルさんも、ミジィさんも、私やジェニファーが《悪魔の銃》の、正体を見抜くのが、間に合わなかった、ばかりに……」 「……エレーヌさん……」 北斗の腕に背中を支えられながら、エレーヌはいつしか涙を流していた。魔力が完全に尽きたためか、いつの間にか普段のアイスブルーへと戻っていた瞳から、とめどもなく涙があふれ出す。 座り込んだまま服の袖で目元を押さえ、肩を小刻みに震わせるエレーヌの背を、北斗は慰めるようにそっと撫でさすった。 そのまま視線だけを上げた先では、長大な拳銃をホルスターに戻したセルヒオが防弾ベストを脱ぎ捨てている。すさまじい炎の嵐の中で今まで気づかなかったが、地面に放り捨てられたベストのちょうど左胸の辺りに、金属片かなにかが深く食い込んでいるのがわかった。 「セルヒオ! どうした!? 大丈夫か!?」 「……ただの跳弾だ、大した問題はない。お前はシスター・エレーヌの側にいろ」 セルヒオは額に薄く脂汗をにじませながらも、奥歯を固く噛みしめて苦痛を顔に出すまいとしているようだった。問いかけに反応するまでの一瞬の間が、言葉とは裏腹にセルヒオのダメージも小さくないことをうかがわせる。 防弾ベストさえあれば弾丸の威力を完全に無効化できると考えるのは全くの誤りだ。弾丸の貫通、つまり内臓の破損を防ぐことはできても、超音速で着弾する弾頭の運動エネルギーを吸収できるというものではない。弾丸がヒットすれば、固い鋼鉄の棒で強く突かれたのと同じ状況になり、程度の差こそあれ例外なく打撲傷と内出血が残る。 ましてや、超大型拳銃アナコンダから撃ち出された弾丸ともなれば、いくら直撃ではなく跳弾といえども、その衝撃は想像を絶するもののはずだ。ダメージが骨まで突き抜けていてもおかしくはない。 肋骨骨折の痛みは、我慢してごまかせるほど軽くはない。息を吸うたび、吐くたびごとに、胸部の皮膚のすぐ下から焼け付くような痛みが神経を走り抜ける。 それでも、体を張って想い人を守ってみせた戦友に対するプライドからか、セルヒオは決して苦痛を口にしようとしなかった。 一歩一歩、踏みしめるように足を運ぶセルヒオ。その行きつくところは……仰向けに倒れたままのエンジェル。 「……エンジェル……」 立ち止まったセルヒオの漆黒の瞳には、隠し切れない哀しみが見え隠れしている。 彼女の傍らに膝をついて、その顔を覗き込んだセルヒオが――途端、彼らしからぬ大声を上げて仲間たちを呼んだ。 「北斗、シスター! 息がある!」 「なんだって!?」 「……本当ですか!?」 セルヒオの後ろにいた北斗も、疲れ切って地面に座り込んでいたエレーヌまでも、驚きを隠せない様子で顔を上げた。 「エンジェル、返事をしろ! エンジェル!」 セルヒオがやや強く肩を揺さぶると、小さくうめいたエンジェルの瞳がゆっくりと開いた。 「エンジェル……よく無事で……」 ミジィの手によって《悪魔の銃》の餌食にされたと思っていたエンジェルが、こうして生きていた――安堵感がどっと押し寄せて、北斗の言葉はそれ以上続かない。 夢を見ているようにぼんやりとしていたエンジェルのターコイズブルーの瞳が、やがてゆっくりと焦点を結び、上から覗き込むセルヒオの顔を、そして少し離れた所にいる北斗たちの顔を見つめる。 「セルヒオ……北斗。私は……そうだ、ミジィ!」 「落ち着け、エンジェル。急に動くな」 「離して! ミジィは、あの子はどうなったの!?」 セルヒオの制止を振り切って跳ね起きようとしたエンジェルだったが、大きな手に肩を押さえられて、上半身を起こしただけに留まった。 エンジェルの肩を押さえたまま、セルヒオは無言ですぐ近くの一点を指差す。 うつ伏せに倒れ伏した、金茶色の髪を持つ女の、屍。 「う、嘘……ミジィ、どうして!? そんな……!」 「ミジィは《悪魔の銃》に……お前が《天使の銃》と呼んでいたあの銃に、魂を奪い去られた。《悪魔の銃》は俺たち3人が破壊したが……失われた命を戻す方法はない」 「そんな……《天使の銃》が……ミジィを殺した……?」 呆然として呟き、ふらふらと視線をさ迷わせるエンジェル。 魂を「喰われた」という真実を言わなかったのは、セルヒオのせめてもの配慮だったが、それでもやはりエンジェルの受けたショックは大きいようだ。 立ち上がる気力も失せた様子で、ただミジィの亡骸を見つめながら、うつろな響きの声だけを向けてセルヒオに問う。 「私が、ミジィを殺した……?」 「違う。お前はミジィを殺してなどいない。全ては《悪魔の銃》の仕業だ」 強く言い切ったセルヒオの言葉にも、エンジェルはほとんど反応を示さない。受け答えも上の空で、それこそ魂が抜けたような様子で座り込んだまま、ぼんやりとミジィの亡骸を眺めている。 やがてそのままの姿勢で、誰に対してというでもなく、ぽつりぽつりと呟き始めた。 「……ミジィは、私を撃たなかった」 「なに?」 「私が《天使の銃》……《悪魔の銃》をミジィに持たせたとき、私の身体は私じゃない誰かに動かされてた。目で見たものも、耳で聞いたこともぼんやりとしか覚えてないけど、あの言葉を言ったのは私じゃなくて、私の中に入り込んだ誰かで……」 セルヒオたち全員の視線が集中する中、エンジェルの瞳にじわりと涙がにじんだ。 「でも、あれほど私と憎み合っていたはずのミジィが……引き金を引くその瞬間、銃口を私の身体から外したのよ。 昔、ミジィがLAを離れる前にもそんなことがあった……お互いに拳銃を突きつけて、どちらが引き金を引いてもおかしくなくて、でもどちらも引けなかったわ……マフィアの幹部として私を追っていても、あの子はやっぱり私の妹だった……」 いっぱいに溜まった涙が、音もなくエンジェルの頬を滑り落ちていく。さめざめと涙を流しながら、エンジェルは震える声で独白を続ける。 「いつも……いつもそうよ。あの子は……ほんの些細なきっかけからマフィアの世界に身を投じてしまうような、バカで、卑怯で……なのに大事なときには非情になりきれない、どうしようもなく優しい子なのよ……」 言葉の最後は、消え入りそうに小さな声。 片手で目元を覆って、引きつった嗚咽を漏らすエンジェルを、3人はただ沈痛な面持ちで見つめていた。 「主よ、ここにさ迷う罪なき魂たちを……」 無事に主の御元へと迎え入れられますように――と小声で言いかけて、エレーヌの祈りが止まる。 痛ましげに唇を噛み、言葉を押し殺したままで十字を切るエレーヌ。いかに「シスター」の通り名を持ち、多くの霊を天へと帰してきた自分でも、それ以上できることは何もないとエレーヌは気づいてしまっている。 なぜなら、祈りと共に送り出すべきその魂たちは、既に欠片も残さず喰い尽くされているのだから。 《悪魔の銃》に喰われた魂は、即座に邪悪な魔力へと変換され、二度と元に戻ることはないのだ。 重苦しい沈黙が続き――やがてエンジェルのしゃくりあげる声がおさまり、かすかな風の音だけが暗闇に響く中、彼女はひとつ大きく息をついて顔を上げた。 目元にまだ残る涙を拭い取って、座り込んだままでセルヒオを見上げる。 「セルヒオ、それに北斗……私とミジィの姉妹喧嘩みたいなものだったのに、あなたたちにはずいぶん迷惑かけたわね。ごめんなさい……でも」 エンジェルは、静かに言った。 とても美しく哀しい微笑みを浮かべて。 「2人とも、ありがとう……いてくれてよかった……」 |