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■堕ちた天使の舞う夜に:長良川広久さん作

第6章 ありがとう…いてくれてよかった

【3】

 セルヒオの頭上を覆い尽くして落下してくる、強烈な光の塊。
 電気溶接のアーク光をすぐ間近で見ているかのような青白い閃光が、セルヒオの視界を閉ざし、真っ白い闇へと塗り替える。
 妖精たちの耳障りなささやき声も、黒服の屍から立ち上っていた血の匂いも、ついには地面に立っている両足の感触さえもが、すべてを埋め尽くす光の中で急速に失われていき――そして突如、世界が暗転する。

 身体の感覚があやふやになる中、真の暗闇に取り残されたセルヒオの耳に、どこからかか細い声が届く。
 力なくかすれ、咳き込むような音も混じったその声は、息も絶え絶えになった女性のものだ。
『……セルヒオ、助けて……痛い……痛いの……』
 その声を耳にした途端。
 セルヒオは愕然と目を見開き、息を呑んだ。
 何かを叫ぼうとしたが声にならず、その口を開いたままで、声の出所を探して周囲を見回し、やみくもに手を伸ばす。
 もしもその様子を、彼の人となりを知る誰かが見ていたなら、普段の鉄面皮ぶりからは到底信じられない狼狽に目を疑っただろう。
 しばらくの間、呼吸することさえも忘れて周囲の闇を探っていたセルヒオが、短く荒い息の合間に声を絞り出す。
「君、なのか……!? そんな、そんなはずは……!」
『助けて、セルヒオ……痛い、苦しい……血が……』
 再度の声と共に、爪先に何かが触れる感触。
 見下ろすセルヒオの目に、真っ赤な血にまみれた細い手が映る。
 何も見えないことに変わりはないものの、地面に立っているという感覚だけは取り戻していた。だがその地面に――背中から大量の血を流してぐったりとうつぶせに倒れた、長い黒髪の女性の姿があった。
「……まさか……あ……ああ……」
 無意識のうちに一歩後ずさるセルヒオ。その指先は、あまりの衝撃の大きさに細かく震えている。
 そのとき、周囲を埋め尽くす暗闇そのものをスクリーンにして、いくつもの映像が浮かび上がった。
 ――数年前の自分。誰よりも愛しい人。その家族。温かい食卓。
 ――破壊音。重い衝撃に揺れる家。咆哮。悲鳴。
 ――真っ赤に濡れた牙を見せて唸る、巨大な魔獣。鮮血。
 ――引き裂かれる人体。踏み潰される人体。喰い千切られる人体。鮮血。
 ――胸の中にかばった震える細い体。背中を走る熱い激痛。鮮血。
「う……ぐ、うああああアアッッ!!」
 セルヒオの過去から抜き出された多数の映像が、そしてその時に感じていた感情までもが、強制的にリプレイされる。
 すさまじいばかりの絶望と悔恨、無力感と憎悪。
 あまりにも巨大すぎる感情の嵐を抑え込むことができず、セルヒオは両手で頭を抱え、悲鳴にも似た絶叫を上げた。
 決して思い出したくない、何年経っても向き合うことができない、人生が大きく狂った5年前の「あの日」の映像。心の奥底に必死に押し込めていたそれらが一斉に周囲の闇へと投影され、「あの日」にセルヒオの精神を埋め尽くした感情を、本人の意思とは無関係に呼び起こす。
 そして、足元に倒れ伏した女性の長い黒髪は……忘れるはずもない、かつて愛した人の、そして守れなかった婚約者の象徴。
 呼吸困難に陥りそうなほどの恐怖を感じながらも、どうしても視線を逸らすことができずにいるセルヒオの前で、黒髪の女性はその全身を血に染めたまま動かない。
 さらにその後方の闇に、一対のギラつく瞳が浮かび上がる。
 蛇のような縦長の瞳孔がセルヒオを見据え、肉食獣の低いうなりが闇を震わせた。
「ぐっ……!」
 邪悪な殺気に押さえつけられ、身を強張らせるセルヒオ。そんな獲物の様子を楽しむかのように、猛獣が闇の中からゆっくりと姿を現した。
 赤と黒の禍々しい色合いの毛皮を持つ、ライオンに近い外見の四足歩行動物。しかしそのサイズは、自然界のライオンより二回り以上も大きく、一般的な乗用車ほどもある。その異常な大きさと体色、それに加えて縦長の瞳孔を持つ目から発せられるすさまじい破壊衝動が、その獣が自然の存在からかけ離れた魔獣であることをはっきりと物語っていた。
 咄嗟に腰へと手をやるが、そこにあるはずの銃もホルスターも、左右ともに消え失せている。いや、銃だけではない。気がつけばセルヒオの服装そのものが、ライダースに防弾ベストの戦闘用装備ではなく、「あの日」に身につけていた、あの頃一番のお気に入りだった上物のスーツに変わっていた。
 セルヒオは「あの日」、武器を何一つ携帯していなかった。だから魔獣の襲撃に対して抵抗することもできず、みすみす婚約者一家を死なせてしまったのだ。
 濁流のように押し寄せる絶望感と罪悪感は、セルヒオの理性を侵蝕し、思考を混乱させていく。
(どこかに武器……武器は……このままでは、また俺は彼女を守れない……!!)
 セルヒオに為す術がないことを見て取ったのか、魔獣はことさらにゆっくりとした動作で近づいてくる。お前たちなどいつでも殺せると言わんばかりに、じわじわと。
 あまりの恐怖にセルヒオが一歩後ずさった、その時――闇の中で、時が止まった。
 VTRのストップモーションのように静止する魔獣。
 そしてセルヒオの傍らに音もなく立つのは、青白く薄ぼんやりとした光をまとい、大きく優美な一対の翼を背中に広げた天使。
 春のせせらぎにも似た涼やかな声で、天使は静かにささやきかける。
『セルヒオ・カレス。あなたは、正義を為すための力を求めますか?』
 その手に握られているのは、精巧なレリーフが全体に刻まれた、まるで工芸品のような古い拳銃。
 木製グリップのすぐ上から長い銃身の中ほどに至るまで、全体に鳥の翼を模したレリーフが施され、さらにその中にうずもれるようにして、瞳を閉じた穏やかな表情の女性の顔が垣間見える。
 絶望感と憎悪とが際限なく膨れ上がり、破綻しかかっている精神の片隅で、セルヒオはふとその銃の事を思い出していた。
 そう、これは《天使の銃》。正義を貫く者に力を与える銃だ――。
(俺には力がなかった。愛する人を守れなかった。この力があれば、俺はこいつを殺せる……俺に力を、復讐の力を、正義を貫く力を!)
 迫り来る魔獣を、血まみれの婚約者を、そして銃身に刻まれた天使のレリーフを、何かに憑かれたような目で見やったセルヒオが、細い手に握られた《天使の銃》を受け取ろうと手を伸ばす。
 ――だが。
 差し出された《天使の銃》のグリップに指先が触れようとした、まさにその瞬間。
「セルヒオ!」
 どこからともなく聞こえてきた別の声が、セルヒオの動きを止めさせた。
 その声の持ち主は――自分が決して忘れてはいけない存在。
 男として愛した黒髪の女性とは、違う意味で。
 人間として、常に心の中に留めておかなければならない、一人の女性。
 手を伸ばしかけて不自然な体勢で固まっていたセルヒオの胸元で、何か小さなものが揺れる。
 細い鎖のついた、何の装飾も為されていない質素なロザリオ。
 銀とはほんの少し異なる、鈍色に近い光沢を持つステンレススチールの輝き。
(ロザリオ、祈りの象徴。ステンレス、銀に触れない彼女が常に身につけていたもの……そうだ、彼女が、彼女を俺は!!)
 音もなく揺れるロザリオの輝きが、セルヒオの心に深く刻まれた言葉をありありと甦らせる。
「セルヒオ・カレス! どうか、憎しみに呑み込まれないで……!」
 かつて己の愚かさ故に銃を向け、死の淵に立たせてしまった女性。
 それでもなお手を差し伸べ、一度は闇に堕ちた自分の魂を救い上げた女性。
 自分の全てを奪ったあの魔獣が、この世ならざるモノの全てが憎かった。そして何よりも最愛の人を守れなかった自分に絶望した。憎しみを忘れないために、絶望を忘れるために、あらゆる種類の銃を手にして、目に入ったモノは片っ端から虐殺していった――しかし彼女は命を張って、それが間違いであることを示してくれた。
 だから、この言葉を絶対に忘れてはならないのだ。
 今、憎しみにとらわれて力を求めれば、例えようもないほどの悔恨に苛まれたあの時と同じことを繰り返す。いや、あの時よりもさらに多くの死と破壊を撒き散らす悪魔へと堕ちてしまう。
 そうだ、思い出せ、天使の姿をしたこのモノの手に握られている銃は――!
『セルヒオ・カレス。あなたは――』
「黙れ!」
 弾かれたように飛びすさったセルヒオが、天使の――否、悪魔の誘惑を振り払うかのように鋭い声を上げた。
 胸元に揺れるロザリオを左手で強く握りしめ、悪魔をまっすぐに睨みつけるセルヒオ。焦点を失いかかっていた漆黒の瞳に、少しずつだが理性の光が戻り始める。
「お前は天使ではない。これは幻影でしかない。
 この暗闇は、俺の心の奥底から引きずり出した記憶によってお前が構成した心象世界だ」
 いまだに収まらない精神の動揺から、息は荒くなり額には脂汗がにじみ出ている。それでもセルヒオは、心に渦巻く憎悪と絶望とを必死に押さえつけながら言葉を続ける。
「悪魔とは元来、人間との契約を交わすことによって力を貸し与え、代償を求めるものだ。
 恐らく《悪魔の銃》に宿るお前の場合、契約書のサインに代わる行為は、《悪魔の銃》を手に取りその引き金を引くことだろう。
 そして悪魔の力を得る代償は、魂ではなく肉体。霊体のままでは不安定な魔力の流れを安定させる器として利用するために、引き金を引いた人間が本来持っていた精神を乗っ取り、その肉体を使って殺戮を行い魂を喰らう」
 思考を論理的にまとめて言葉に出すことにより、無理矢理に呼び起こされる負の感情を抑え込もうとするセルヒオ。
 セルヒオが悪魔のそばから離れたのを合図に、止まっていた魔獣が再び動き始めた。喉の奥で低くうなりながらジリジリと迫り来る巨大な魔獣へと視線を移し、普段よりさらに鋭い気迫を宿す瞳でしっかりと見据えながら、セルヒオはなおも続ける。
「聖水を浴びせられたミジィの体は、もう宿主としては使えない。だから見切りをつけて魂を奪い、魔力を補給しつつ、次の宿主を求めた。
 間近にいた3人の人間のうち、心の奥底に癒えない傷を抱え、常にどこかで『力』を渇望している俺が、一番付け入りやすいと見たのだろうが……俺はもう、そんな揺さぶりで闇に堕ちたりはしない。
 俺の魂を闇から救い上げた人の言葉が、道標として俺の心に刻まれている限りは」
 セルヒオの手の中に残る質素なロザリオは、命がけの説得でセルヒオを救った彼女の、慈愛に満ちた真摯な意志の象徴だ。握りしめる左手に、彼女の柔らかな微笑みを思わせる温かさが伝わってくる。
 にじり寄ってくる魔獣が足を止め、全身を低く沈み込ませる。四本の野太い足に貯えられた力が解放されれば、一瞬のうちに間合いを詰めてセルヒオの身体に牙を突き立て、肉片に変えることだろう。
 だがセルヒオは、空の右手を目の高さに伸ばし、見えない何かをその中に握る。
「いかに《悪魔の銃》の影響下にあろうと、ここが俺の心象世界であるなら、俺が望めばその通りの武器が使えるはずだ」
 目で見る限りでは何もない。だがセルヒオの右手に伝わる感触は間違いなく、何十回となくギルドメンバーとしての仕事に使ってきた愛銃ベレッタM92Fのグリップのそれだった。
「グガァァゴオオォゥゥッ!!」
 全身の骨に響くほどの咆哮を上げ、猛然と飛びかかってくる魔獣めがけて、セルヒオは見えない銃の引き金を立て続けに引いた。
「――俺は二度と、亡霊(ファントム)には戻らん!!」

 刹那、世界が再び反転する。
 漆黒の闇から、白くまばゆい闇へと。
 気がつくと、セルヒオの服装は元の重装備へと戻っていた。ライダースに防弾ベスト、左右の腰にホルスター。だが足元に転がるM4A1は、既に銃身の大半の部分で赤錆が進行しつつあった。
 そしてちょうどセルヒオの目の高さに、金属の塊がある。
 鳥の翼を模したレリーフ、その中に瞳を閉じた女性の顔。
 半透明の細い手に握られた《悪魔の銃》が、グリップをセルヒオに向ける形で差し出されていた。
 さらに視線を上に向ければ、すぐ間近に天使のような翼を広げた美しい悪魔の顔。だが、これまで聖水を浴びせられたとき以外ほとんど余裕の表情を崩すことがなかったその顔には、今やはっきりと驚愕の色が浮かんでいる。
 その様子を見て、セルヒオは直観的に理解した。
 もし心象世界の中で《悪魔の銃》を手に取ったら、現実でもこの銃を手にしてしまっているという仕掛けだったのだろう。そして引き金を引けば詐欺まがいの契約は完成し、悪魔は首尾よくセルヒオの肉体を乗っ取る――そのためにセルヒオのトラウマを抉り出し、一種の精神攻撃を仕掛けてきたに違いない。
 状況を理解すると同時に、セルヒオは反射的に左右の腰に手を飛ばした。手の平に感じるのは、ゴツゴツとした鉄塊の確かな感触。そのまま右腰のベレッタ――ではなく、左腰のリボルバーのグリップを握る。
 セルヒオのクイックドローは最速で0.4秒。腕をしっかりと伸ばし衝撃に備える構えを取る場合でも、1秒とはかからない。
 奇術のような鮮やかさで抜き放った長大な拳銃を、セルヒオは目の前に差し出されたままの《悪魔の銃》の銃身根元部分、女性の顔のレリーフに向けて突きつけた。

 ――ズガァンッ!! ――ガォゥンッ!!
『ギオオォゥゥウウアアァァッッ!!』

 拳銃のそれとは思えない獰猛な銃声に、歪んでひび割れたハーモニカの不協和音にも似た悪魔の絶叫が重なる――。

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