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■堕ちた天使の舞う夜に:長良川広久さん作

第6章 ありがとう…いてくれてよかった

【1】

 エレーヌの鋭い声が空気を震わせたその直後、ミジィが虚ろな瞳をそちらに向けた。
 手にした《悪魔の銃》に弾丸を――妖精を込めるや否や、エレーヌの額をポイントして引き金を絞る。
 触れれば一瞬で魂を引き抜かれる悪魔の牙が、青白い光跡を曳いて迫り来る。だがエレーヌは動じることなく、修道服の頭巾を右手で頭から取ると、妖精が突っ込んでくるタイミングに合わせてバンッと勢いよく打ち振った。まるで飛んでくる蝿でも払い落とすかのように。
 たったそれだけで、なぎ払われた妖精は地面に叩き落とされ、光の粒子となってかき消える。しかし同時に頭巾は青白い炎に包まれ、大きく燃え上がった。
 反射的に手を放したエレーヌの指先を舐めるようにして、2秒足らずで青白い炎は消え失せる。地面に落ちる前に、頭巾は見る影もなく黒い灰となり果てていた。
 輝くようなブロンドの髪をさらしたエレーヌが、右手をスッと正面に差し伸べる。まっすぐにミジィを、そしてその背中に浮かび上がる天使と妖精を見据え、赤銅色の瞳に宿す戦意をさらに強める――と同時に、左手で開いていた呪文書が、風もないのにパラパラとめくれた。
 十数ページほど戻ったところで、紙のめくれる動きがピタッと止まる。
 同時にエレーヌの形良い唇が小さく動き、彼女が最も慣れ親しんだ言葉――フランス語によって呪文を紡いだ。
『我、白き氷の矢もて暗黒を貫かん!』

 ギルドの魔法使いは、必ずといっていいほど自分専用の呪文書を持ち歩き、戦闘時にはそれを媒介にして各種の魔法を発動させる。
 北斗は以前、なぜ魔法を使うのに呪文書が必要なのかと疑問を抱いたことがある。超能力の使い手は自分自身の意志の力だけで超常現象を発現させるのに、どうして魔法使いは魔法の発動に呪文書の助けを借りる必要があるのかと。
 その問いに対し、エレーヌはこう答えた。
 魔法使いの魔力と呪文書との関係は、電力と電化製品との関係に例えるとわかりやすいでしょうと。
 発電所で作り出され、何段階もの変電・降圧を経て家庭に送られる電力。だがそれ自体は極めて危険なものであり、人間が直に触れればコンセントの100ボルト電源ですら感電により死に至る事もあり得る。それと同様、魔法使いが体内に持つ魔力も、そのままの状態で体外に出してしまうと、暴発して本人に危害を及ぼすことがままあるのだという。
 だが、現代社会を支える数々の文明の利器を動かすのに、電力は必要不可欠だ。ファンヒーターやオーブンは高熱を生み出し、冷蔵庫やエアコンは冷気を満たし、照明は夜の闇を押しのけて世界を照らす――それこそ昔の人々から見れば魔法としか思えない現象を、電化製品は電気を流しいくつかスイッチを操作するだけでいとも簡単に実現する。
 電化製品が電力を様々な物理現象に変えるように、呪文書は魔力という強く危険なエネルギーを変換・制御し、火炎や冷気、雷撃に閃光といった様々な魔法現象を引き起こすために存在する道具なのだ。
 ギルドメンバー歴20年近いエレーヌのようなベテランともなれば、使いたい魔法を頭に思い浮かべるだけで呪文書が自らページをめくり、その魔法に対応した呪文の書かれているページを自動的に呼び出す。
 そしてスイッチの役割を果たすのは、魔力の供給源である魔法使いによる、呪文の一部の音声化――すなわち詠唱。

 エレーヌの詠唱が完了すると同時に、差し伸ばした右手から長さ30センチほどの白く細いものが飛んだ。
 ミジィの右肩めがけ空を切り裂くのは、魔法により虚空から作り出された氷の針。
 見えない力により軌道を逸らされることもなく一直線に飛んだ魔法のエネルギーは、しかしミジィの手から《悪魔の銃》を取り落とさせるには至らなかった。ミジィの背後に浮かび上がる天使が、背中から抱きしめるような姿勢で半透明の手を差し伸べ、氷の針を受け止めたのだ。
 これまでの銃撃とは全く様相を異にする攻撃に、天使の顔色がほんの少しだが変わった。慈愛に満ちた微笑から、かすかな驚きの表情へと。しかしミジィは生気の感じられない薄笑いを浮かべたまま、すぐに次の弾を装填してエレーヌを狙う。
『我、清き火の欠片もて災厄を退けん!』
 だが次の攻撃はエレーヌの方が早かった。《悪魔の銃》から妖精が撃ち出された瞬間、先程の氷結魔法から間髪入れず詠唱された火炎魔法が、妖精を取り囲むように発動する。妖精は悲鳴を上げる間もなく大量の火の粉を浴びて、燃え上がりながら地面に墜落した。
 余った火の粉がミジィと天使に降りかかるが、青白く輝く天使の幻影に触れる前にすべてかき消され、ダメージは全く与えられていないようだ。しかしエレーヌは、火の粉を巧みに操ることで天使の動きをうまく牽制しながら、北斗たちのそばまで駆け寄ってきた。
「北斗さん、大丈夫ですか!? もしや《悪魔の銃》の邪気に……!?」
 真っ青になって大量の脂汗をにじませる北斗の様子を見て、エレーヌは我知らず声を上ずらせていた。魔法を中断して修道服の懐をまさぐり、ジュース缶程度の大きさをしたクリスタルガラスの瓶を取り出して北斗に手渡す。
「清めの祈りを込めた聖水ですわ。一口含めば邪気の影響は消え失せるはずです」
 言われるままに瓶の中身を喉へ流し込む北斗。味そのものはただの塩水と変わらないのだが、喉を潤す心地良い冷たさと清涼感が内臓に染み渡り、それまでの激しい頭痛と吐き気をあっという間に体外へ押し流していく。天使と妖精のささやき声は相変わらずうるさく聞こえているにも関わらず、身体の変調は全く気にならなくなった。
 その間エレーヌは、北斗たちの前に敢然と立ち塞がるようにしてミジィとにらみ合い、視線をぶつけ合って牽制合戦を繰り広げていた。攻撃が簡単に止められてしまうのを目にして、ミジィは《銃》を撃つのをためらっている。
 白人女性としてはかなり小柄な部類に入るエレーヌだが、修道服に身を包んだその小さな背中が、北斗には今までになく頼もしいものに思えた。中身が半分ほどになった聖水の瓶を返しながら彼女に問う。
「ありがとう、もう大丈夫です。だけど今言ってたのはいったい? あれが《悪魔の銃》だって……」
「言葉の通りですわ。北斗さんもセルヒオも、真実とはかけ離れた噂に踊らされていたのです。
 正義を貫く者に力を与える《天使の銃》などというものは、最初から存在していなかったのです。
 あなたたちが《天使の銃》と呼び、そう思い込んでいたもの……それこそが、持ち主の精神を乗っ取り殺戮を行わせ、そして犠牲者の魂を喰らう《悪魔の銃》ですわ。
 かくいう私も、ジェニファーから電話でそう知らされたのはほんの数分前ですが」
 受け取った瓶を懐にしまいつつ、冷静に答えるエレーヌ。だがその眼光は油断なくミジィを、そしてその手に握られた《悪魔の銃》を見つめている。
 夜の貴族ヴァンパイアの血脈が生み出す魔力が全身から立ち上っているのが、魔法的な素養の全くない北斗にさえ、皮膚が焼けるようなピリピリとした感覚となって感じられた。
「だが、あの《銃》に刻まれたレリーフのデザイン、それにミジィの後ろに浮かぶ幻影――天使そのものの姿に見えるが?」
 やや目を細めるようにして青白く発光する天使を睨みつけるセルヒオの言葉を、エレーヌは強い口調で否定する。
「サタンですら主の御使いの姿を取り人を欺くことがある、と聖書にもありますわ。外見にだまされてはなりません、セルヒオ」
 言いながら、再度撃ち出された妖精を今度は右手一本で受け止める。着弾の瞬間に胸元のロザリオが白くほのかな光を放った――と思う間もなく、パチィンと乾いた音を残して、光の粒子に変わり弾け飛ぶ妖精。
 北斗の時とは違い、ロザリオは錆を吹くどころかくすみ一つない銀白色の光沢を保っている。持ち主の魔力の差だ。
「北斗さん、あなたならば既にあれの本質を感じ取っているのではありませんか?
 もともと霊に影響されやすい体質の上に、あれほどの邪気を、血と殺戮に飢えた精神の波動をまともに浴びたのであれば……」
「ええ……それに、倒れた黒服から魂を抜き取るところもたった今見たばかりですし。でも、魂を集めてどうしようというんです、あれは?」
 ある種優しげにも見える微笑を見せる半透明の天使を見上げながら、北斗は尋ねる。
 そしてエレーヌの答えを聞いた途端、背筋を駆け上った寒気に思わず身を強張らせた。
「いいえ、集めているのではありませんわ……あれは魂を『喰らう』存在ですもの。
 肉体を離れた、あるいは強制的に肉体から抜き取った魂を、自らの存在を維持し魔力を強めるためのエネルギーに変換しているのです。そう、ちょうど私たち人間が毎日の食事によって生命維持に必要な栄養を摂るように。
 そして《悪魔の銃》の『食欲』には、人間のような限界も自制心もありませんわ。より多くの魂を喰らうために、持ち主の精神を乗っ取って殺戮を繰り返し、そうして喰らった魂によってさらに悪しき魔力を増していくのです」
「魂を、喰らう……」
 反芻したその言葉のすさまじさに、思わず息を呑む北斗。
 だがその隣のセルヒオは、恐るべき事実を突きつけられてなお冷静さを保っていた。先程撃ち尽くしたM4A1のマガジンを慣れた手つきで取り替えながら、エレーヌに問う。
「詳しい話は後でいい、シスター・エレーヌ。現状に対処するのが最優先だ。
 奴はこちらの弾丸を逸らす何らかの力を持っているらしい。その上、俺や北斗には《悪魔の銃》の弾丸を防ぐ手段がない。
 攻撃も防御もできない俺たちが奴と渡り合うには、いったいどうすればいい? あなたが戦っている間、ずっと足手まといになっているわけにはいかないんだ。あんなものに運命を弄ばれたエンジェルのためにも」
 努めて冷静な口調で話してはいるものの、言葉の端々に抑えきれない激しい感情がにじむ。セルヒオらしからぬその様子からは、この一ヶ月近く追い続けてきたエンジェルのあまりにも無惨な最期に対しての、そしてそれをもたらした《悪魔の銃》に対しての純粋な怒りがうかがえた。
「エンジェル……以前話していた《悪魔の銃》を奪った女性ですわね。では、あそこに倒れている女性が?」
 エレーヌの視線がほんの一瞬ミジィから外れ、その足元に倒れ伏すエンジェルに向いた。
 天使――いや、天使の姿をした悪魔は、その一瞬の隙を見逃さずミジィに攻撃の指示を与える。悪魔の周りに漂う妖精が3体、青白く薄ぼんやりと発光する銃身に飛び込んだ。
『我、原初の混沌より形無き炎を招かん!』
 3体まとめて飛んできた妖精を、エレーヌは目前の空間に展開した炎の塊で叩き落とす。普段の物腰柔らかな態度からは想像もつかないほど鋭い眼光をミジィの上の悪魔に向けて、唇をキュッと引き結んだ。
 こうした手合いには慣れているはずのエレーヌでさえ、《悪魔の銃》の攻撃はどこまで受け止められるかわからなかった。先程から、本来なら攻撃に使うべき魔法を防御に回しているのは、なるべくロザリオなどでガードしたくないからだ。全身にビリビリと感じる禍々しい魔力の波動は、20年近いギルド活動歴を持つエレーヌにも過去に経験のない、異質にして憎悪と殺意に満ちたものだった。
 魔法戦闘の専門家である自分でさえ受け切れる自信がないのだから、もしセルヒオや北斗が直撃を受けたら、いかにギルドメンバーといえども即死は免れないだろう。このままで戦い続けるのはあまりにも危険すぎる。弾丸を逸らすという力がどういったものなのかは想像もつかないが、まずは北斗たちの身を守るのが最優先だ。
 エレーヌは左手で開いていた愛用の呪文書を一旦閉じて右手に持ち替えると、視線はミジィと悪魔から外さないまま、その空いた左手を後ろ手に北斗たちへ差し伸べた。
「北斗さん、セルヒオ。私の手に触れて下さい」
「え? は、はい」
 今まで呪文書の下に隠れていて見えなかったが、エレーヌの白く透き通るような手には美しい指輪があった。中指にはまった銀白色の台座の上でその存在を主張しているのは、明るい緑色の輝きを見せる傷ひとつない翡翠だ。
 言われるままにエレーヌの手に触れる二人。それを確認して、エレーヌの澄んだ声が力強く聖句を奏でる。
『主よ、その御手をかざし我らに御加護を与え給え、そして我らに主の御意志を為さしめ給え』
 詠唱が終わると同時に、指輪の翡翠から温かな緑白色の光がこぼれた。手の触れている部分を伝って柔らかく広がっていく光は、北斗とセルヒオの全身を薄膜のように包み込み、やがて肌に吸い込まれるかのように見えなくなる。
 長い経験を持つエレーヌは、呪文書を介する攻撃魔法のみならず、ロザリオや聖水、パワーストーンなどの魔力が込められた装身具をも自在に扱うことができる。その細い指に輝く翡翠は、精神や魂といった霊的領域に直接影響を与えるエネルギーに対して強力な防御作用を持つマジックアイテム。『クレール・ドゥ・リュヌ』が取り扱うギルドメンバー向け商品の中でも、特に希少なパワーストーンの一つだ。
 そしてこの翡翠の真価は、使用者本人のみならず本人以外の仲間にも、長時間の霊的防御を施せるという点にある。
「これで多少の攻撃には耐えられるはずですわ。
 北斗さん、セルヒオ。私が魔法であの悪魔を牽制する間に、何とか宿主の……あの女性の持っている《悪魔の銃》を撃ち落として下さい。
 銃の弾道を曲げているのは、恐らくあの悪魔の持つ魔力。私が攻撃している間なら、防御をそちらに集中させて隙を突くことができるかも知れませんわ。
 宿主の手から離れれば、《悪魔の銃》は弾を撃てなくなるはずです。それから封印を行いますわ」
「けどエレーヌさん、あなた自身はどうするんです?」
 緑白色の淡い光に包まれていたのは北斗とセルヒオだけで、どうやらエレーヌ本人には翡翠の防御魔法がかかっていないらしい。北斗が心配しているのはそこだ。だがエレーヌは、自信ありげに微笑んで小さくうなずいてみせる。
「ご心配なく。ロザリオと修道服の二重の防御がありますわ。
 それに今は夜、ヴァンパイアの魔力を余す所なく使えますもの」
 そっと手を離したエレーヌは、青白い悪魔に向き直ると、再び左手に移した呪文書を開いてその身体から見えない魔力を立ち上らせる。 銃口をエレーヌに向けたまま虚ろな視線を投げかけるミジィ、そしてその上方で穏やかな笑みを見せている悪魔に向けて、決然たる戦意をみなぎらせた視線を向けた。
 両者の間に張り詰める緊迫感が一気に高まる。
「《悪魔の銃》に狙いを集中してくれ、セルヒオ。俺はこれで奴の注意を引きつける」
 北斗が小声でそう言いながら、ジャケットの前を開いて中に隠していた銃を取り出す。
 拳銃ではないが、マシンガンというにはあまりにも小さい、全長35センチにも満たない冗談のような寸詰まりのボディ。
 だが銃口のすぐ近くからフォアエンド・グリップが真下に突き出しており、両手で構えて弾道をコントロールできるようになっている。様々な追加パーツによる柔軟な機能拡張性と、セミオート/フルオートの切り替え機構を備えた立派なサブマシンガンなのだ。
 ヘッケラー&コッホ社製MP5KA4――世界各国の特殊警察に採用されたMP5シリーズの中でも最も短く携帯性に優れたモデルで、通称は『クルツ』。ドイツ語で『小型の』という意味である。
「ライフル弾でも当たらないのに、拳銃弾でどうするつもりだ」
「そこは考えてあるさ」
 マガジンを押し込んでクルツをフルオートにセットした北斗が、替えのマガジンを取り付けてM4A1を構え直したセルヒオと並び、いつでも飛び出せるよう体勢を低くする。
「私が魔法を使った後は、それぞれがその場の判断で。――行きますわよ」
 エレーヌが赤銅色の瞳で悪魔を見据え、スゥッと息を吸い込む。
 ミジィの手にする《悪魔の銃》に、また何体もの妖精が飛び込み、新たな弾丸が込められる。
 睨み合う両者の間で極限に達した緊張を破るのは、朗々たる呪文の詠唱。
『我、雪の女王の吐息を輝ける嵐に変えん!』
 高く掲げたエレーヌの右手から無数の雹が現れ、零下数十度の突風と共にミジィたちを襲う――エレーヌ得意の冷凍呪文が発動すると同時に、北斗とセルヒオは左右に分かれて駆け出した。

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