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■堕ちた天使の舞う夜に:長良川広久さん作

第5章 それとも私に殺された方が嬉しいの?

【4】

 光は青白いドーム状になってふたりを包み込み、なおも膨れ上がっていく。
 その光に押しのけられたかのように、ふたりの周囲の空気が突風となってすさまじい渦を巻いた。
「なっ……くおっ!?」
 とっさに腕で目を覆ったセルヒオの身体が、瞬間的な暴風に真後ろへ押し流された。あまりの風の強さにバランスを保てず倒れ込み、ゴロゴロと地面を転がって、ようやくのことで片膝立ちになる……だが、その瞬間に目にしたものは、セルヒオをして驚愕の声を上げさせるに十分なものだった。
「……これは……!?」
 青白い光のドームの輝きが薄らぐと共に、エンジェルの上体はスローモーションのように後方へ倒れていった。
 一方、ミジィはその手に《天使の銃》を握ったまま、虚ろな瞳でゆらりと立ち上がる――そのミジィの後方斜め上に、光のドームと同じ色調の青白い燐光を放つ、半透明の影が浮かび上がった。
 ゆったりとした衣服をまとった若い女性のような輪郭、背中から大きく左右に広がった一対の翼。周囲にいくつもの小さな青白い光球――よく目を凝らしてみると、翼を生やした身長20センチほどの妖精のようにも見える――を従えたそれはまるで、
「天使……なのか?」
 そうセルヒオに口走らせるようなある種の神々しさを備えて、ミジィの後ろで揺らめいていた。
 身構えるのも忘れてその天使の姿に見入っていたセルヒオの意識を引き戻したのは、背中から浴びせられた鋭い声。
「だめだセルヒオ、そいつから離れろ! それは天使なんかじゃない……っぐぅっ!?」
 セルヒオの10メートルほど後方で叫んだ北斗が、急に足元をふらつかせた。左手でこめかみを押さえ、額に脂汗を浮かべながら、奥歯を食いしばって必死に両足を踏ん張る。
「北斗! どうした!」
「お、お前には聞こえないのか!? そいつの、この声……!」
 陽炎のように揺らめく天使を細かく震える右手で指差しながら、北斗は苦しげな声を上げる。
「声、だと?」
 M4A1を構えながらジリジリと後退し、頭を押さえて苦悶する北斗の正面をガードする位置に移動しながら、改めてミジィと天使の顔を見据える。どちらも口元は動いていないように見えるが――よく耳を澄ましてみると、確かに小さなささやき声がどこからか聞こえてくるような気がする。
『――魂タマシイ魂を喰らう、もう少しで我が力ちからチカラが戻る――』
 子供のようでもあり、若い女性のようでもあり……だが、人間には決してありえない奇妙なひずみを持つ声。それがいくつも重なって聞こえる。
「なんだこの声は? 北斗、これはいったい?」
「ぐ……早く、離れるんだ……こいつは俺たちを、殺すつもり……ぐうぅっ!!」
 高熱にうかされたように呼吸を荒げ、表情を歪める北斗。今にもその場に倒れ込んでしまいそうだ。
 離れようにも、この状態の北斗を連れていては走ることもままならない。セルヒオは右手に提げていたM4A1を構え直すと、ミジィの上で揺らめく天使の姿に向かって数度トリガーを引いた。
 乾いた断続的な銃声。しかし、何も起こらない。
 防弾ベストをたやすく貫通する高速ライフル弾は、青白い影を素通りして虚空に消えた。
 効果がないと見るや、セルヒオは銃口の角度を下げ、《天使の銃》を持った右手をダラリと下げたまま立ち尽くしているミジィに狙いをつける。
 その右手をメタル・サイトの先にとらえ、一度だけトリガーを引く――だがその弾丸も虚しく空を切った。
「……何だと!?」
 ミジィまでの距離は20メートルもない。静止したターゲットを、自分も静止した状態から射撃して外すことなど、拳銃でさえあり得ない距離。より直進性の高いライフル弾ならなおさらだ。何らかの方法で弾道が曲げられているとしか考えられない。
 信じ難い現象を目にして、セルヒオは無意識のうちに後ずさる。そんな様子をあざ笑うかのように、ミジィはゆっくりと顔を上げてセルヒオたちを見ると、寒気のするような薄笑いを浮かべた。
 そして無言のまま、右手の《天使の銃》を高々と差し上げ、夜空へと銃口を向ける。
 すると、天使の周りを漂っていた小人のような青白い影が、次々と《天使の銃》の周りに集まり始めた。何十体もの翼を持つ妖精が薮蚊のように群がり、やがて一体また一体と《天使の銃》の銃身に吸い込まれるように消えてゆく。
 銃全体が青白い光に包まれ、あの不気味なささやき声がだんだんと大きくなり始めた。
「なんだ?」
「ま……まずい!」
 ただ見つめることしかできずにいるセルヒオの後ろで、北斗が必死にジャケットの右ポケットをまさぐる。
 直視できないほど青白い光が強まった瞬間、ミジィは虚ろな笑みを貼りつけたまま《天使の銃》の引き金を引いた。

 ――ゴォァッッ!!

 突風が吹き荒れると同時に、まばゆい光弾が《天使の銃》から撃ち出される。
 闇を引き裂きながら10メートルほどの高さまで上がったバスケットボール大の光弾は、そこで数十個もの小さな光球に分裂し、周辺一帯に降り注いだ。
 見上げるセルヒオたちの頭上からも、2個の光球が――いや、あの小さな妖精が落下してくる。クスクスと小さな笑い声を響かせながら、一直線に宙を滑り降りて。
「どけっ、セルヒオっ!!」
 切羽詰まった叫びと共に、北斗がセルヒオを押しのけて前に立った。
 右手に握りしめたロザリオを高々と突き上げて、落下してくる妖精を受け止める。
『キィィアアァァ!!』

 ――パンッ! パァンッ!

 正面からロザリオに突っ込んだ2体の妖精は、鼓膜に突き刺さる絶叫と風船を針で突いたような破裂音とを残し、青白い光の粒子となって闇にかき消えた。
 セルヒオは北斗の背中越しに周囲の様子を注視する。周辺に降り注いだ多数の妖精たちはすべて、倒れた黒服たちの身体へと飛び込み――その瞬間、まだ生きていた黒服はビクンと痙攣して、それきり動かなくなる。既に死んでいた者は、当然ながら何の反応もない。
 数秒後、妖精たちは手に手に何かを持って黒服の身体から抜け出てきた。
 妖精たちのまとう冷たく青白い燐光とは異なる、黄金色に近い輝きを放つごく小さな球。
 それを大事そうに持ったまま、空を滑って天使のもとへ戻ると、水をすくうような形に広げた天使の両手に黄金色の光球を載せる。
 すべての妖精が黄金の光球を載せ終わると、天使はそれを両手の中に包み込んでから、ゆっくりと手の平を合わせた。すると、これまでどこか不安定に揺らめいていた天使の輪郭がよりはっきりとしたものになり、全身にまとう青白い燐光がさらに強まる。
 北斗はその光景を目にして、何が起こっているのかを直感的に悟った。
 脳を刺し貫かれるような激痛に苛まれながらも、必死に頭を働かせようとする。
(黒服の身体から取り出されたもの……あれはきっと、人の魂だ……こいつ、魂を、喰らっている……!!)
 しかし、エレーヌやジェニファーの言葉によれば、持ち主を操り人の魂を喰らうというのは《悪魔の銃》の特性のはず。
 目の前にあるのは、正義を貫く者に力を与える《天使の銃》なのに、なぜだ――?
 だが、その疑問の答えを北斗が見つけるよりも早く。
 壊れた薄笑いを浮かべたままのミジィが、右腕をゆっくりと下ろして角度を水平にした。青白い光を宿す《天使の銃》のロングバレルの先に、セルヒオたちをピタリと捉える。
 反射的にまたロザリオを突き出そうとして、北斗は手の平に伝わる感触が妙にざらついていることに気づいた。右手を開き……直後、愕然として両目を見開く。
「こ、これは……!?」
 美しいステンレスシルバーの光沢を放っていたはずのロザリオが、全体からどす黒い錆を吹いてボロボロになっていた。
 外形はかろうじて残っているが、地面に落としたらそれだけで折れてしまいそうな様子だ。
(そんなバカな! ステンレスなんだぞ!?)
 ステンレス鋼は普通の鉄鋼と異なり、酸化され化学的に安定した状態であの特徴的なステンレス光沢を放つように調整された合金だ。金属化学的見地からすれば、ステンレスが錆に覆われるということは絶対にあり得ない。
(――錆? そういえば、あの瓦礫の山に刺さってる鉄骨もみんな錆だらけだ……まさか、これもあの天使もどきや妖精もどきの能力だっていうのか!?)
「……フフフッ……」
「くっ……ミジィ!」
 唇からかすかに笑い声を漏らしながら、《天使の銃》を構えたミジィがスッと目を細める。マガジンの残弾すべてをフルオートで放ったセルヒオの最後の抵抗も、弾道を逸らされて無駄に終わった。頼みの綱のロザリオも、とても次の一撃を受け止められそうにはない。
 天使の周囲を舞う妖精のうち2体が、銃身へと吸い込まれた。
 青白い閃光が強まり、思わず左手で目を覆う北斗。ボロボロのロザリオを突き出す以外、彼らにできることはもうない。
(ここまで、なのか……? ちくしょう、こんなところで殺られてたまるか!!)
 光が弾け、2体の妖精が弾丸となって撃ち出される――。

 ――だが。
 妖精が撃ち出された刹那、何の前触れもなく、空間が燃え上がった。
 ミジィと北斗たちとのちょうど中間の位置に、真っ赤に輝く火球が突然現れたのだ。
『ピキィィアァッッ!!』
 避ける間もなくまともに火球に突っ込んだ2体の妖精は、真紅の炎に巻かれて失速し、か細い悲鳴を上げながら北斗の足元に落下して闇に溶けた。
 宙に浮かんだまま燃え盛っていた火球が、出現したときと同様、突然フッと消え失せる。直後、凛とした女性の声が闇を震わせた。
「北斗さん! セルヒオ! ご無事ですか!?」
「――エレーヌさんっ!」
 ふと気がつけば、北斗たちから見て左方向に、白と黒の修道服に身を包んだその女性の姿があった。
 胸元には、北斗に譲ったのと同じデザインのロザリオ。天使の放つ青白い燐光を反射して、銀白色にきらめいている。
 対霊戦闘用装備で身を固め、使い込まれて少し色の落ちた革張りの呪文書を左手で開いているエレーヌの瞳は、既にいつもの穏やかなアイスブルーから強い意志の光を宿す赤銅色へと変じていた。全身に宿るヴァンパイアの魔力を開放している証拠だ。
 九死に一生を得てどうにか生気を取り戻した北斗が、エレーヌに注意を促そうとする。
「気をつけて、エレーヌさん! 《天使の銃》が暴走――」
「違います!」
 だが、エレーヌはこれまでにないほど強い調子で北斗の言葉を遮り――そして、ミジィの背後で両手を広げて微笑む天使をキッと睨みつけ、決然と叫んだ。
「《天使の銃》などというものは存在しないのです! あの銃こそが《悪魔の銃》ですわ!!」

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