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■堕ちた天使の舞う夜に:長良川広久さん作

第5章 それとも私に殺された方が嬉しいの?

【1】

 翌日深夜。
 落下の衝撃で屋根までもが大破し、原形を留めない大量の瓦礫の山となった工場跡。
 夜空に星の輝きはなく、大都会の街明かりに照らされて黒々とした雲の輪郭がかすかに浮き上がっている。既に4月とはいえ夜風はまだ肌寒く、時折強まる風が電線を揺らして、不安を掻き立てるような低い音を響かせる。
 そんな闇夜の中、工場跡に隣接する50メートル四方ほどの広い空き地の中央に、セルヒオは闇と一体となったかのように微動だにせず佇んでいた。
 セルヒオの服装は、これまでのバイカースタイルとは少々趣の異なるものだった。上はいつものライダースだが、さらにその上に厚みのある黒のベストを重ね着しており、パンツは米陸軍レプリカの迷彩服。靴も固くゴテゴテとしたライダーブーツではなく、ツヤを消した柔らかい黒革でできているファスナー式ブーツである。
 もちろんこれらの衣服には、市販品にはない性能が付加されている。迷彩パンツはギルド特製の防刃防炎素材、ベストの前後には軽量かつ高強度の防弾板が仕込んであり、黒革のブーツは足音を完全に消せるよう設計された特殊部隊用のタクティカルブーツだ。
 愛銃ベレッタM92Fは、ショルダーホルスターで服の下に隠すのではなく、幅広のベルト付きホルスターでこれ見よがしに右の腰に差しており、防弾ベストやベルトの各所にあるポケットは全て弾倉で埋まっている。
 さらに右腰だけでなく左腰にも、真新しいクロムシルバーの輝きを放つもう一丁の拳銃が吊られていた。
 昨夜の倒壊から今日の夕方までぶっ続けで行われていた警察の現場検証も一段落し、今はこの瓦礫の山の周辺にセルヒオ以外の人影はない。立入禁止の黄色いテープが敷地の周囲に張り巡らされているものの、入ろうと思えば誰でも入れる状態だ。とはいえ、外国麻薬組織の構成員らしき身元不明の遺体が13体も――それも1体を除いた全てが倒壊による圧死ではなく拳銃による射殺体で――発見されたという警視庁の発表は、市井の人々に近寄り難い恐怖感を抱かせるのに十分すぎるほどの衝撃的な内容だった。
 そんな血生臭い場所のすぐそばに、しかも真夜中にセルヒオがただ独りで立っているのには、もちろん理由がある。
《天使の銃》を手に入れたので取引をしようという名目でミジィを呼び出したのが、この時間、この場所だからだ。
 指定の時間まではまだ少し間があるが、セルヒオは早めに来てある程度の下調べを済ませ、準備を整えていた。
 調べてみてわかったことはふたつ。瓦礫の山には場所によってかなりの起伏があり、銃撃戦になっても遮蔽物には困らないこと。そして柱の鉄筋鉄骨や屋根の梁などが、どこも芯まで赤錆に腐食されて各所で破断していること。
 ミジィに伝えるべきエンジェルの言葉、そしてそれとは別に問い質すべき内容をもう一度頭の中で反復したセルヒオは、ふと顔を上げて数百メートル先の高層マンションを見やった。
 電話で連絡を取ったミジィには独りで来るように言っておいたが、相手は麻薬組織の幹部だ。エンジェルの話をするとはいえ、組織の武器流通拠点として使われていたこの場所柄、独りで来ることはまずないだろう。セルヒオはその点を考慮し、抜け目なくバックアップを用意していた。
 目立たないようライダースの襟元に隠されている超小型マイクに、セルヒオは小声で語りかける。
「そろそろ時間だ。用意はできているか」

 緑色の濃淡で表現された世界の中、今まで身動き一つせず立ったままだった長身の影がこちらを振り仰ぐ。
 ノクトビジョン(赤外線暗視装置)付き望遠スコープを覗き込んでいた北斗のインカムに、マイクからの音声が飛び込んできた。
「そろそろ時間だ。用意はできているか」
「OK、いつでもいい。交渉、うまくやってくれよ」
 ヘッドフォン型インカムの右側から口元に伸びるマイクに小声で返すと、スコープに映るセルヒオが右手を軽く上げた。
 防寒性と衝撃吸収性の高い厚手のジャケットを着込んだ北斗が立っているのは、工場跡から400メートルほど離れた高層マンションの屋上である。セルヒオのいる空き地まで遮蔽物は一切なく、テープに囲まれた敷地全体を一望できるポイントだ。周辺に明かりはほとんどなく、肉眼でその場所の状況を確認するのは困難だが、ノクトビジョンを使う分には逆にちょうどいい。
 北斗はひとつ深呼吸をして、バイポッド(二脚)の上にセットされたライフルが肩と頬にフィットしているかもう一度確認すると、空き地に隣接する瓦礫の山から所々に突き立った適当な鉄骨を相手に、対象を素早くスコープ中心に捉えて引き金を引くイメージトレーニングを繰り返した。
 ミジィとの交渉は、彼女と面識があり一定の信頼を得ているセルヒオが単独で行う。北斗の役割は、セルヒオが周囲を取り囲まれるなどして危険な事態に陥った場合に、敵の手の届かない遠距離から脱出支援を行うスナイパーだ。
 無論、一般刑事が行う射撃訓練は拳銃のみで、こんな長距離の狙撃は含まれていない。北斗が狙撃の技術を身につけたのはギルドメンバーになってからのことだ。しかし警察学校時代から射撃のセンスには定評があった北斗は、狙撃の上達も非常に早かった。ギルドに入って1年になる今では、スナイパーライフルを自分の手足のように使いこなせるまでになっている。
 使用する銃は、オーストリアの銃器メーカー大手・ステアー社製ボルトアクションライフル、ステアーSSG−P2K。
 都市部での戦闘を前提として軍/警察特殊部隊向けに開発されたこの銃は、サイレンサーを装着しても遠くの敵から発見されにくいよう、一般的なスナイパーライフルよりも全長が短く設計されている取り回し重視のモデルだ。とはいえその命中精度は非常に高く、各国の特殊部隊に制式採用された実績もあり、十分な信頼性を持つ。
 最大射程は750メートル。工場跡は余裕で有効射程内に入っている。多少は風の影響を考慮しなければならない距離だが、立ち止まっている人間の腕くらいなら狙って撃ち抜ける技術と自信が北斗にはあった。
 いつでも正確かつ迅速な狙撃ができるよう指先と心の準備を整えた北斗は、トリガーから離した右手をジャケットのポケットに入れ、中にあるエレーヌのロザリオを握った。金属の冷えた感触が、久しぶりの狙撃を前にして少し汗ばんでいる肌に心地良い。
 退魔能力を備えたギルドメンバー用ロザリオといえば、手の平に乗る小さな物を銀で作るのが一般的だが、エレーヌのものはサイズが一回り大きく、素材も銀ではなくステンレス鋳鋼を削って加工したものだ。指先で触れるだけで全身にじんましんが出るという重度の銀アレルギー体質を持つエレーヌが――ヴァンパイアの血筋の影響らしいが、詳しい理由はエレーヌ本人にも分からない――、ジェニファーと相談して特注で作ったのだという。
 エレーヌによると、銀よりも魔力蓄積性の小さい鋼は本来あまり魔法的な装身具には適さないものなのだそうだが、北斗には魔法やら超能力やらに関する理論はさっぱりわからないし、正直な所どうでもいい。
 重要なのは、このロザリオには実際に邪悪な霊体を追い払えるだけの魔力が込められていることと、これを北斗に託したのが他ならぬエレーヌだということだ。
(エレーヌさん、今頃何してるんだろう……この前プリンキャッスルで言ってた《悪魔の銃》の捜索でもしてんのかな)
 スコープを覗いた体勢のまま、北斗の意識の半分ほどが脳裏に描いた想い人の姿を追いかけ始める。
 それを無遠慮に現実へと引き戻したのは、反対側のポケットで震え始めた携帯電話だった。
 緊急連絡が入ることもあるので、ギルドメンバー間の連絡に使う携帯電話は電源を落とすわけにはいかない。こんな時にいったい誰だと内心で愚痴をこぼしながらも、銃に密着させていた身体を起こし、ストラップごと引っ張り出してディスプレイを見る――表示は、一昨日登録したばかりの『クレール・ドゥ・リュヌ』。
(ジェニファーさんから? ……いったい何だ?)
 セルヒオの邪魔にならないようマイクのスイッチを切った北斗は、不審に思いながらも受話器を耳に当てる。
「もしもし、大守です」
「ああ北斗さん、ジェニファーよ。つながってよかったわ。今、時間取れるかしら?」
 妖艶な響きを含んだややハスキーなアルトは、確かに一昨日『クレール・ドゥ・リュヌ』で聞いたばかりのジェニファーの声だ。だが受話器から聞こえる彼女の声には、いつも余裕のある態度を崩さなかった彼女らしからぬ、ピリピリとした緊迫感と真剣さがにじんでいる。
「なるべく手短にお願いします。今はセルヒオのサポートをしてる最中で」
「わかったわ。早速だけど、あなたたちが探してる《天使の銃》、今どこにあるの?」
「わかりません。持ち主のエンジェルとは昨日接触したんですが、また姿を消してしまって……」

 ――北斗は昨夜の去り際に言った通り、日勤の仕事を済ませてからこの交渉までの間に、再度エンジェルが収容されている病院を訪れるつもりだった。しかし昼ごろに、彼女の見張りにつけていた別のギルドメンバーから緊急連絡が入った。
 エンジェルが、病院から忽然と消え失せたと。
 見張りはエンジェルが朝食をとるのを確認し、それ以後ずっと個室の外に張り付いていた。にも関わらず、ナースが昼食を持って部屋に入ると、既にエンジェルの姿はどこにもなかったのだという。本人の姿だけでなく、セルヒオに救助された際に身につけていたすべての私物も――そして《天使の銃》も。病室に残されていたのは、ベッドの上に脱ぎ捨てられた患者用パジャマだけだったそうだ。
 到底信じられない話に疑念を抱いた北斗は、実際にエンジェルがいた個室へ足を運び、その見張りやナースにも直接話を聞いた。個室は3階、しかも窓には転落防止用の太い格子がはまっていて、入口ドアを塞げば誰も出入りできないはずなのだが、その格子が何本もボロボロに変質して折り取られ、窓の真下の地面に転がっていたのだ。
 格子の材質はアルミニウム系合金。鉄鋼のように簡単に酸化されるものではないし、ましてや人間の腕力で破壊できるはずもない。
 ドアから出たのではない以上、エンジェルは窓から脱出したとしか考えられないのだが……ならばどうやって金属製の格子を破壊し、つかまるものなど何一つない垂直の壁を降りていったというのだろうか。
 一通りの現場検証を済ませた北斗は、すぐにセルヒオに連絡を取った。さすがのセルヒオも状況説明を聞いて「不可解だ」とうなったが、今から探しても手がかりが何もないということで、とりあえず捜索は他のギルドメンバーに任せることにして、当初の予定通りミジィとの交渉を行うことにしたのだ。

 細部は省いて、エンジェルが病院から消えたという要点を北斗が話すと、ジェニファーは困ったように小さくため息をついた。
「そうだったの……となると、どうしようかしらね」
「何がです?」
「その《天使の銃》に関して、どうしても現物を見て確認したいことがあるのよ。
 実力と経験からいってエレーヌが一番適任だと思ったから、あの子に《天使の銃》を見てもらうつもりだったんだけど……肝心の現物がないんじゃ仕方ないわね」
「あの、急にこちらのことを気にするなんて、何かあったんですか?」
「ええ。私が主導して進めていた《悪魔の銃》の調査から、気になることが判明してね。
 持ち主の精神を乗っ取って殺戮を行わせ、犠牲者の魂を喰らう《悪魔の銃》――ただの噂ではなく、確かに実在することがはっきりしたわ」
「何ですって?」
 穏やかならざる言葉を耳にして、北斗の声が無意識のうちに少し上ずる。その反応を計ったかのように続くジェニファーの声。
「そして、ここが問題なんだけど――あなたたちが相手にしてるアメリカの麻薬組織、それがどうも私たちの追う《悪魔の銃》とも深い関係を持っているらしいの」
「……! 本当ですか!?」
 思わず大声を出しそうになった北斗だが、危ういところで声を抑えた。もし足元のマンションの住人にでも聞かれたら、狙撃も何もあったものではない。
「本当よ。広域暴力団や中国系マフィアが入り乱れる東京の黒社会で、その組織がこれだけ急速に勢力を伸ばしたのは、どうやら裏の――私たちの世界の力を取り入れていたかららしいわね。
 私が前線指揮を執って、今から怪しい所に乗り込む予定なの。できればその前に、同じ組織が闇オークションにかけたっていう《天使の銃》の詳細を知っておきたかったんだけど……あっ、ちょっと待ってて」
 送話口を手で塞いだらしく、音がフッと消える。3秒ほどの間を置いて、申し訳なさそうなジェニファーの声が戻ってきた。
「ごめんなさいね、もう行かないと……エレーヌをそちらに合流させるから、情報交換はあの子としてちょうだい。今どこにいるの?」
「品川区の廃工場倒壊のニュースはご存知ですよね? セルヒオはその工場跡に、俺はそこから400メートルほど離れた高層マンションの屋上にいます」
「了解。すぐに向かわせるわ。――そちらも大変そうね、気をつけて」
 切れた電話をしまい、インカムを元の位置に戻しながら、北斗はジェニファーの語った内容を頭の中で反芻する。
 ――《悪魔の銃》は、実在した。
 持ち主の精神を乗っ取って殺戮を行わせ、犠牲者の魂を喰らう……以前エレーヌからも聞かされたことがあるが、やはり何度聞いても寒気のするようなおぞましい話だ。
 ジェニファーの情報収集能力は、彼女と20年の付き合いがあるというエレーヌも太鼓判を押しているところだ。そのジェニファーが言うのだから、確実な情報だと見て間違いないだろう。
 対になる名前を冠する《悪魔の銃》と《天使の銃》。そのふたつを繋ぐのは、エンジェルが仇と追い続ける麻薬組織。
 では、エンジェルの持つ《天使の銃》は、本当にただのアンティークガンに過ぎないのだろうか? 闇オークションに出す前に組織がどこから《天使の銃》を探し当てたのかは知らないが、《悪魔の銃》がジェニファーの言うように戦慄すべき魔力を備えているのであれば、《天使の銃》がそういう類のものでないと言い切れるだろうか? 
 後から後から湧き上がってくる疑問。こうなると、消えたエンジェルの身も心配だ。だがこちらから連絡する手段がない以上、もう一度エンジェルの方から接触してくるか、もしくはギルドの情報網に引っ掛かるかしない限り、彼女の安否を確かめることはできない。北斗はもどかしさに歯噛みせずにはいられなかった。
 ひとまず今の電話の内容をセルヒオに伝えようと、切ったままだったインカムのマイクを入れる――しかしその直前、いくつものヘッドライトの輝きが遠くの暗闇の中で向きを変えたのが見て取れた。
 幹線道路から5台の車が連なって曲がってくる。一番後ろの1台はセルヒオのいる空き地へ向かってまっすぐに走っているが、残る4台は走りながらヘッドライトを消して闇に溶け込んだ。
 セルヒオと話している時間はもうない。北斗は努めて冷静になろうと深く呼吸をしながら、スナイパーライフルに張り付いた。
 ノクトビジョンで追うと、空き地の四隅を押さえるように散開して止まった4台の車から、拳銃を手にした黒服が降りてくるのが見える。1台につき4人ないし5人。広い空き地にただ独りで立つセルヒオを包囲するには、いささか大げさすぎる人員配置だ。
 もしセルヒオの身に危険が迫った場合には、とりあえず遮蔽物のある工場跡へ逃げ込んで応戦しつつ、北斗がセルヒオを狙う敵を可能な限り排除していくという手筈になっている。だが、まさか20人近い数が群がってくるとは予想していなかった。北斗のSSG−P2Kの装弾数は通常で5発、外付けのボックスマガジンをつけた今の状態でも10発しかない。
(頼むぞセルヒオ、うまくやってくれよ……!)
 セルヒオの斜め後方に位置する黒服の一人を望遠スコープでポイントしながら、北斗は心の中で祈らずにはいられなかった。
 何しろ、渡すと伝えた《天使の銃》の現物はセルヒオの手元にはないのだ。交渉がうまくいかなければ、警告もなしにいきなり撃たれることもあり得る。ミジィと面識があるとはいえ、お世辞にもセルヒオのあの性格と口調が交渉事に向いているとは思えない。
 そんな北斗の心配をよそに、セルヒオは静かなたたずまいでその場に立ち続けている。セルヒオを中心に、半径30メートルほどの円を描くようにして周囲に散開する多数の黒服に、はたして気づいているのかいないのか。
 そして、ただ1台ヘッドライトを消さなかった車が空き地のすぐ前に停車し、助手席から出てきた黒服が素早く後部座席のドアを開けた。
 ゆっくりとした動作で降りてきたのは、『ロングワインディングロード』の時よりさらに豪奢な衣服と装身具を身にまとったミジィだ。毛皮のコート、エナメルのパンプス、宝石を散りばめたネックレスに指輪に髪留め……いっそ趣味が悪いとも言えるほどに金のかかっていそうな身なりで現れたミジィは、闇の中にセルヒオの長身を認めるやいなや、一直線につかつかと歩み寄っていった。
 ついてこようとした黒服を制して車の所まで下がらせ、完全武装のセルヒオの目前3メートルに、臆する事もなく独りで立つ。
「久しぶりね、ミスター・カレス……いえ、セルヒオでよかったのかしら?」
「ああ」
 にこりともしないまま挨拶を交わした二人の間に、空気が震えるような緊張感が張り詰めた。

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