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■堕ちた天使の舞う夜に:長良川広久さん作

第4章 おかげでまた死に損なったのね

【2】

 マイカーで高速羽田線を南下する北斗は、ジリジリとした焦りと不安感とを自覚しながらアクセルを踏み込んでいた。
 刑事としての仕事で港区を離れているときにエンジェルの情報が入ってくるとは、タイミングが悪いとしか言いようがない。
 エレーヌに頼まれていた内容を考えると、《天使の銃》を持つエンジェルとセルヒオを二人きりにはさせたくなかったが、物理的に間に合わない場所にいたため止むを得ずセルヒオに連絡を取った。
 とはいえ、セルヒオだけに任せておくのはあまりにも危険すぎる。エレーヌの話を聞き、セルヒオがその鉄面皮の下に強烈なトラウマと憎悪を抱えていることを知った今では、なおさらその思いは強かった。
 残務整理もそこそこに署を飛び出した様子を見た同僚には妙な顔をされたが、今はそんなことに構ってはいられない。一刻も早く現場に向かい、エンジェルが行動を起こす前に彼女の身柄と《天使の銃》を押さえなければならない。
 警察官にあるまじき猛スピードで高速を駆け抜け、大井南ランプを降りてなおも飛ばす。国道を折れれば目的地の工場跡まで一直線だ。
 だが、交差点を曲がって交通量の少ない道に入った直後。
『……たましい』
 耳元で囁くような女性の声が、北斗の耳をくすぐった。
 何かの錯覚だろうと思って視線を前に戻したが、同じ声は二度三度と耳に届く。
『たましい……魂を我に……力を取りも……』
 若い女性のもののようだが、奇妙にエコーのかかったその声は、なんとも形容し難い不気味さを北斗に感じさせるものだった。
 精神的な圧迫感に我慢できなくなって、北斗は車を停めた。外の空気を吸うために窓を開ける。
 顔を出そうとした窓のすぐ横を――青白く光る何かが、すさまじいスピードでかすめていった。
「……何だ?」
 何が起こっているのか確かめようと、あわてて車を降りる北斗。
 だが、身体の突然の変調によろめき、左手をボンネットについて右手で頭を押さえた。
 こめかみを右から左へ串で突き通されるような激痛と、胃袋が裏返りそうなほどの強い吐き気。
『――魂たまし魂を喰ラウ力たまし喰らう我が力をチカラを取
り戻す糧――』
 不気味な声は何重にも重なり合い、頭痛と吐き気は間断なく北斗を襲う。
「……くそ、何があるってんだ?」
 二重の苦痛に顔をゆがめながら、それでも必死に顔を上げる北斗。その目が驚愕に見開かれる。
 遠くにポツンと建つ、月明かりに照らされた何かの工場らしき大きな建物――その屋根を貫くようにして、青白くかすんだ光の柱が立ち上っていた。
 その光の柱の周りを、同じ青白い輝きを帯びた何かが、いくつも飛び回っている。距離があり光に覆われているため、細部までは見分けられないが、サイズは人間よりかなり小さいようだ。2本ずつの手足を持ち、2枚の翼を広げ、ゆったりと空を舞うその姿はまるで――。
「天使……?」
 心に浮かんだイメージをそのまま口に出した北斗。
 だが、ゆらゆらと飛んでいた光が1つ、その言葉に反応するかのように空中を滑って北斗のところへ近づいてきた途端、北斗の背中を強烈な悪寒が駆け巡った。
「いや違う……天使なんかじゃない……!」
 ギルドメンバーになる前から霊視体質を持っていた北斗は、望んでもいないのに様々な霊体を目にしてその霊気に「あてられる」ことが度々あった。背中を走る悪寒は、ちょうどその感覚にそっくり……いや、その感覚を数倍に増幅したような、本能的に危険を感じずにはいられないほどの恐ろしい感覚だ。
 頭痛と吐き気のせいでまともに銃も構えられない北斗をあざ笑うかのように、天使の姿をした青白い光は北斗の目の前5メートルくらいで滞空しながら口を開く。
 先程から聞こえていた不気味な声が、今度はすぐ間近から聞こえてきた。
『――たまし魂を得るチカラ力を取り愚かなニンゲンの手で手であつめクラウ喰ら――』
「ぐうっ、うあああっ!」
 目の前にいるのは一体だけなのに、やはり声は無数に重なって聞こえてくる。そして、天使の姿をしたモノの言葉は、まるで一音節ごとに鋭利な刃を宿しているかのように、強烈な邪気を伴って北斗の精神を蝕んでいく。
 ある種美しくさえ見える姿とは裏腹に、明らかにこのモノは北斗に対する害意を持っていた。
『――死を死を死をシを呼べたましい魂魂を喰う殺せ殺せコロセ殺セ殺殺殺殺殺――!!』
 意識が途切れそうなほどの激痛の中、不意にエレーヌの顔が北斗の瞼の裏をよぎる。
(ぐ……エレーヌさんだったら、こんな奴は簡単に追い払えるだろうに……エレーヌさん? そうだ……!)
 一縷の望みを託し、北斗は右手でスーツのポケットをまさぐる。
 指先に冷たく冴えた金属の感触――昨日エレーヌから受け取ったばかりのロザリオ。
「くそぉっ! 消えろおっ!」
『ア……キィアアアアアァッ!』
 固く握りしめたそれを必死の思いで突き出すと、光るモノは甲高い悲鳴のような音を立てて、矢のような速さで上空へと飛び去っていった。
 気がつくと、夜空まで立ち上っていた光の柱は跡形もなく消え……そこにはただ夜の闇だけが広がっている。
「く……ハァッ、ハァッ……ううっ」
 ボンネットに両手をついて、乱れた呼吸を整える。額には大量の脂汗がにじみ出ていた。
 周囲を見回すが、特に混乱が起こっている様子はない。ただでさえウルテルの影響で超常現象が頻発している昨今、あれだけ派手な現象を多くの人々が目にしていたのなら、野次馬が集まってくるなり警察が呼ばれるなりの反応があってもいいはずだが、周辺は何事もなかったかのように静まり返っていた。
 ということは、あの光の柱や天使のようなモノは、強度の霊視体質の自分にだけ見えていたのだろうか。
 今起こったことは一体何だったのか……考えようとするが、あまりに唐突すぎて思考がまとまらない。
 ひとつ確実に言えることは、たった今、間違いなく自分は生命に関わるレベルの危機に直面していたということだ。
 いまだ背中に残る悪寒を振り払うかのように強く頭を振って、北斗は顔を上げた。月光に照らされてその影を浮かび上がらせている、目的地の工場跡に目をやる。
 北斗のいる場所から200メートルほど先にあるその建物の屋根が――何の前触れもなく、傾いた。
 何度もまばたきする北斗だが、暗いとはいえ目の錯覚ではなかった。
 長方形の建物のうち一辺の壁が上から押し潰され、屋根がそのまま沈み込んでいく。
 後方の国道からかすかに聞こえる車の走行音や排気音に混じって、前方からバキバキという不穏な音が響いてきた。
 そして、その異様な光景にあっけにとられた北斗が我に返って行動を起こすよりも早く、わずか数秒のうちに建物は完全に倒壊した。
 まるで見えない巨人の足に踏み潰されでもしたかのように、屋根が壁や柱を破砕しながら真下に落ちたのだ。
「う、嘘だろ……何なんだあれは!?」
 いくら古い工場跡とはいえ、震度6強クラスの大地震にでも見舞われない限り、屋根がまるごと真下に落ちるなどという崩れ方をすることは考えられない。今しがた見た光の柱と何らかの関連があるとしか思えなかった。
 慌てて車に飛び乗り急発進。途中、道の端に停められている大型バイクを目の端で捉える。セルヒオの愛車と全く同じカラーパターン――最悪の事態が一瞬脳裏をかすめ、思わず歯ぎしりする。
 車から飛び降り、瓦礫の山と化した工場跡に踏み込む。入口の前には幌付きのトラックや黒塗りの乗用車が何台か停まっているが、どれもフロントガラスが飛散した壁の破片によってヒビだらけになっている。巻き上げられた大量の埃や土煙がいまだ収まっていない中、北斗は目を細め顔をしかめながら、二人の名を呼び続けた。
「セルヒオ! エンジェル! いるのか!? 返事をしてくれ!」
 引きちぎられた電気配線から散る火花を避けつつ、正面入口らしき場所から右手側へと回り込むと、土煙の中に立つ人影らしきものが目に入った。
「セルヒオか!?」
「北斗……よく来てくれたな」
 立ち込める土ぼこりの中、工場横の空き地の方から姿を現したセルヒオは、片腕をエンジェルの身体に回し、彼女に肩を貸していた。一方のエンジェルはひどく疲れているのか、それともケガを負っているのか、肩を借りて歩くのが精一杯といった様子だ。
「二人とも、ケガは!?」
「肉体的には問題ないが、エンジェルの様子がおかしい」
「おかしいって、何がだ? だいたい、なんでこんなタイミングで建物が倒壊するんだ? 中にいるマフィアは?」
「倒壊の前に全滅していた。それよりも、警察が来る前に移動するぞ。俺たちの身元が知られると面倒なことになる。話は後だ」
「あ、ああ……そうだな」
 北斗も肩を貸し、車までエンジェルを運ぶ。その間もエンジェルは無言で、口を開くのも億劫なようだった。ただ、北斗の顔をチラリと横目で見ただけだ。
 エンジェルを苦労して後部座席に乗せ、顔を上げた北斗は、セルヒオの首筋に細い血の筋が伝っていることに気づいた。
「セルヒオ、血が」
「わかっている。ガラスで浅く切っただけだ、大した事はない」
「乗っていくか?」
 車の助手席を指す北斗に、セルヒオは軽く首を振った。
「いや、バイクでお前についていく。あれを残しておいたらそれこそ簡単に身元が割れるだろう。
 ギルド関連の病院や診療所で一番近い所へ行ってくれ。エンジェルをゆっくり休ませて、詳しい話を聞く必要がある」
「わかった」
 北斗がうなずくのを確かめて、セルヒオは愛車の所へ走っていった。その俊敏な動きは普段と変わりない。セルヒオのケガについては、彼が言う通り心配なさそうだ。
 車に乗り込みキーを回そうとして、ふとバックミラーに映るエンジェルの表情を見る。
 美しかったブロンドと鮮烈な赤いジャケットは見る影もなく埃まみれになり、表情も生気を失ってやつれているように見える。既に眠りに落ちているのか、トルコストーンブルーの瞳はじっと閉じられたままだ。
 後方でバイクのヘッドライトが灯るのを確認して、北斗はゆっくりとアクセルを踏み込む。はるか遠くの夜の闇から、消防車とパトカーのサイレンがかすかに響いてきていた。

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