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■堕ちた天使の舞う夜に:長良川広久さん作

第4章 おかげでまた死に損なったのね

【1】

 北斗がそぼ降る雨の中で電話を取ったとき、セルヒオは自宅マンションに帰ってきて手早くシャワーを浴びたところだった。
 エンジェルの妹と名乗った、ミジィという金茶色の髪の女。もしそれが本当ならば、マフィアに対する無軌道な襲撃を繰り返すエンジェルを止める鍵になる可能性もある。だからこそ、髪が乾くのも待たずに北斗へと連絡を入れた。
「もしミジィという女が本当にエンジェルの妹だとすれば、二人を引き合わせることで、エンジェルが引き起こす流血を止められるかもしれない。そうすれば《天使の銃》を回収するチャンスもできる」
 しかしセルヒオの話を聞いた北斗は、エンジェルの妹だというミジィの主張をかなり懐疑的に受け止めた。
「そうかな? エンジェルがどんな名前を使って、いつどこから入国したかさえ正確にはわかっていないのに、そのミジィという女はエンジェルが東京に来ていることを知っていた――不自然だと思わないか?
 ギルドメンバー以外にエンジェルの存在を追いかける必要があるのは、例の組織の人間だけだ。むしろ俺には、その女もマフィアに一口かんでいる可能性の方が大きいんじゃないかと思えるよ。
 そもそも姉妹だという話だって、そのミジィとかいう女が一方的にそう言っているだけで、エンジェルからは一言も聞いたことがないだろう?」
「確かにその通りだ。肝心のエンジェルについて、俺たちが持っている情報はあまりにも少ない。
 俺としても、こんな突然降って湧いたような話を頭から信用してはいない。ただ、エンジェルの凶行を制止し《天使の銃》を回収するために多少なりとも使えそうな情報なら、利用してみる価値はあるということだ」
「それで、今後そのミジィとの連絡はどうするんだ?」
「定期連絡はしない。何か進展があってこちらから連絡するまで、ギルドの動きには首を突っ込むなと言ってある。
 もしお前の言うように、エンジェルを始末し《天使の銃》を奪い返すための手段としてマフィアが送り込んできた人間だとしたら、迂闊にギルドの情報を漏らすわけにはいかないからな」
「それはそうだが……だとすると、少し腑に落ちない点が出てくるんだよな」
 北斗はいぶかしむように声を上げ、続ける。
「君がその女と話したときには、《天使の銃》を返すようエンジェルを説得してくれと、そう言われたんだろう?
 いくら《天使の銃》が組織にとって重要なものだからって、そんなみっともないことまでして奪い返そうとするか?
 裏社会の組織にとって、面子を捨てるということはそのまま勢力の衰退を招き、ひいては対立組織に増長を許すことを意味するのに」
 勤続10年近い現役刑事である北斗ならではの指摘だ。セルヒオも元警察官なので、その主張は実感として理解できる。
 セルヒオは少し考え込んだ後、結局YESともNOとも判断しかねて曖昧な答えを返した。
「本当に《天使の銃》が何らかの力を持つマジックアイテムだとしたら、それだけのことをしてでも奪い返しに来る可能性はあるが」
「可能性、か……結局、どれもこれも推測の域を出ないか。君の言う通り、俺たちの持ってる情報は少なすぎるな」
 電話の向こうでかすかに嘆息する北斗に、相変わらず感情の動きの見えないフラットな口調でセルヒオは告げる。
「今為すべきことは、エンジェルの動きを追って尻尾を掴むことだ。
 他のギルドにも顔の利くお前のほうが、人探しには向いているだろう。何かあったらまた連絡を。必要ならすぐ駆けつける」
 純粋な戦闘能力であれば北斗を上回るセルヒオだが、情報収集に必要な人脈やコネがほとんどないという大きな弱点がある。過去の悪名がたたって、他のギルドメンバーとの個人的な繋がりが極めて希薄なためだ。エンジェルの動きに関する情報は、北斗が集めてくるのを期待するしかない状況だった。
 北斗もその点はわかっているので、聞き取りようによっては自分だけ調査をサボって投げっぱなしにしているようなセルヒオの物言いにも、気を悪くするようなことはない。
「ああ、わかってる。何か情報が入ったら連絡するよ。それじゃまたな」
 ついさっきジェニファーから聞かされたばかりの衝撃的な過去、セルヒオとエレーヌとのいきさつについて、心にわだかまりがないといえば嘘になる。
 だが、今そんな話をして協力関係を壊すのは得策ではない。エンジェルを止めるためにも、そしてエレーヌから頼まれたセルヒオの監視のためにも。もし二人の過去について聞き及んだとセルヒオが知れば、以前エレーヌに見せたようなすさまじい拒絶反応を起こし、共同戦線など望むべくもなくなってしまうだろう。
 内心では複雑なものを抱えている北斗ではあったが、そこは刑事としての長年の経験で巧みに覆い隠し、別れの挨拶をするまで何事もなかったかのように振る舞い続けた。

 ――そして翌日、事態は大きな動きを見せた。ミジィの出現が引き金になったかのように。

※ ※ ※

 無数の街灯とヘッドライトが照らし出す夜の街を、セルヒオは愛車にまたがって疾走する。
 北斗から「組織の拠点のひとつにエンジェルが突入しようとしているらしい」という連絡を受けたのが、30分ほど前のことだ。
 目的地は品川区の南東部、宅地から離れたところにある古い工場跡。今は組織のダミー会社によって倉庫代わりに使われている。
 表の警察の内偵捜査では、夜になると全く人気のなくなる立地を利用して、麻薬よりもかさばる非合法商品――闇ルートに流される銃器の一時的な集積場所となっているらしい。
 当然、以前エンジェルと一緒に乗り込んだナイトクラブなどとは比べ物にならないほど、危険性が高い。
 エンジェルはその危険性も承知の上で、単身乗り込もうとしているのだろうか。
 エンジェルが只者ではないことは、これまでの言動や戦闘時の身のこなしから容易に見て取れる。だがそれでも、たったひとりで敵が何人いるか分からない武器庫に乗り込もうなどというのはあまりにも無謀な話だ。恨みや復讐というよりは、憎い敵を巻き込んでの自殺願望なのではないかと思ってしまう。
 本来ならばすぐ北隣の港区に職場がある北斗のほうが近いはずなのだが、あいにく表の仕事で所轄署を離れており、到着は遅れるとのことだった。そこで一報を受けたセルヒオが先行したのだ。
 込み合っている国道を折れると、今までの車の喧騒が嘘のような、静まり返った暗い道に出た。エンジェルが早まって突入などしていないことを祈りながら、セルヒオはさらにエンジンを吹かして先を急ぐ。
 ほどなくして、遠くの闇の中にその工場跡の黒い影が浮かび上がってきた。
 既に午後9時を回っているというのに、照明が点いている。すりガラスの窓に水銀灯の真っ白い光が散って、工場跡の周辺だけが奇妙に明るく照らされていた。
 セルヒオは明かりに照らされない場所でバイクを停め、後部にネットでくくりつけていた黒い布袋から、多人数との戦闘を想定して持ってきた武器を取り出した。
 レミントン社製ライアットガン(暴動鎮圧用小型散弾銃)、M1100ディフェンダー。
 通常のショットガンより銃身が短く取り回しの軽いソウドオフタイプの銃だ。必要ならば片手でも撃てるほど軽量で反動も少ない銃だが、その分破壊力は抑えられており、一撃で相手の命を奪うためではなく、多数の人間を「殺さずに戦闘不能に追い込む程度」のダメージを与えるために使用される。
 弾薬は自宅を出るときにフル装填してある。右手でグリップの硬い感触を確かめ、左手を銃身下部のポンプに添えると、セルヒオは特殊警察時代に身につけた足さばきで足音を殺しながら、身を低くして工場跡へと走った。
 工場跡の周囲には、長い年月に晒されて煤けた建物の外観とはおよそ不釣合いな、真新しい幌つきトラックと数台の黒い乗用車。
 誰も乗っていないことを確かめると、トラックの幌に背中をつけて建物内部の様子を窺う。が、正面の大きなシャッターは地面まで下ろされており、セルヒオの位置からでは中を見ることはできない。セルヒオは素早くその場を離れ、工場の横に回ろうとした。
 だがその時――すりガラスに映っていた白い照明が、一斉にフッと消えた。
 同時に。
「ヒッ、イ、イギャァァァァァーーーッ!!」
 真っ暗になった工場のガラスどころか、壁や柱までもビリビリと震わすほどの絶叫が、中から轟いた。
 男性の声のようだが、あまりの恐怖のためかその悲鳴は完全に裏返っている。
 反射的に工場の方へと銃口を向けて身構えるセルヒオの目に入ったのは、すりガラスの向こう、建物内部で音もなく明滅する青白い光。
 明滅のテンポは早く不規則だが、すりガラスごしに見てもまばゆいほどの明るさだ。電気溶接のアーク光のようにも見えるが、光源の大きさはそんなものとは比較にならない。光球といってもいいほどだ。
 2、3秒ほどでその青白い光球はかき消え、悲鳴もパッタリと止んだ。
 後に残されたのは、ただ闇と静寂。
 予想外の事態だが、とにかく何が起こったのか、そしてエンジェルがいるかどうか確かめる必要がある。セルヒオは両手のディフェンダーを握り直し、動くものがあれば見逃すまいと全身の感覚を闇の中へ張り巡らせながら、ジリジリと建物に近づいていった。
 ちょうど破って突入するのによさそうな、大きなガラス窓の横に張り付いたとき、嗅ぎ慣れた匂いが中から漂ってくるのに気づく。
 硝煙と鉄錆の匂い。それも相当に濃い。
 その上、組織の拠点のはずなのに人の気配が全くしない。照明が切れたのだったら、もっと忙しく走り回る足音がしてもいいはずだ。
 事態の異常さを察したセルヒオは、迷うことなくディフェンダーのストックでガラスを叩き割った。窓枠に残ったかけらを靴底で蹴りのけ、中に乗り込む。
 途端、広い内部に充満していた強烈な鉄錆の――新鮮な血の匂いが、望まれざる侵入者を出迎える。
 天井の明かり取り窓から差し込む月光に照らされているのは、床に累々と横たわる黒服たちの屍。
 幅20メートル、奥行き50ないし60メートル、高さ6メートルのだだっ広い屋内に倒れている黒服の数は、ざっと見て10人は下らない。息をしている者は一人もいないが、身体から流れ出した大量の血液はまだ固まっておらず、水はけの悪いコンクリートの床の各所に気分の悪くなるような血溜まりを形成している。
 そんな陰惨極まる光景の中央に、自慢の長いブロンドを月光にきらめかせたエンジェルが立ち尽くしていた。
 足元に仰向けにひっくり返った40がらみの黒服の屍を、焦点の合っていないぼんやりとした瞳で、かすかに唇を開いて、放心したように見下ろしている。闇に浮かび上がる深紅のジャケットは、まるで返り血に染まったかのような毒々しい色合いに見える。ガラスを割る大きな音と共に入ってきたセルヒオの存在にも、全く気づいていないようだ。
 だらりと下ろされた右手には、彼女の愛銃ベビー・イーグル。
 そして――身体の陰になっていた左手に目をやった瞬間、さしものセルヒオも漆黒の瞳を大きく見開かずにはいられなかった。
 白く細い手に握られている、黒光りするロングバレルの銃。
 その銃身には、鳥の羽を象ったような精緻なレリーフが彫り込まれている。
 状況を理解すると同時に、セルヒオは普段の冷静さからは想像もできないほどの――そして自分自身でも信じられないほどの――焦りを含んだ大声を上げていた。
「エンジェル! 撃ったのか、《天使の銃》を!?」
 だが……エンジェルは何の反応も示さなかった。
 もはや動くことのない屍を見下ろしたまま、顔を上げることもしない。強いショックで放心状態に陥っているのか、それとも――。
「――エンジェル!!」
 先程よりさらに強く、鋭く呼びかけながら、セルヒオはディフェンダーを天井に向けて引き金を引いた。
 拳銃とはまた違う、重厚で獰猛な破裂音が、広い工場に幾重にも反響する。
 ゆっくりと一つまばたきをしたエンジェルが、銃声からやや遅れてハッと顔を上げた。反射的に右手のベビー・イーグルを向け――メタル・サイトの先にとらえた人間を確認して、驚きの声を漏らす。
「……セルヒオ? なんであんたがここに!?」
 明らかに何かがおかしいエンジェルの言動に猛烈な不安感を覚えながらも、それを押さえつけるようにセルヒオは叫ぶ。
「その前に答えろ! 《天使の銃》を撃ったのか!? これはすべてお前の仕業なのか!?」
 初めて見るセルヒオの剣幕に気おされたのか、エンジェルは怯えたように身を震わせてうつむき、以前の刺々しくもタフな態度からは想像もつかない弱々しい声を上げた。
「……わからない……」
「何だと?」
 その様子に再び言葉にしがたい違和感を覚えたセルヒオは、血溜まりを跳び越えるようにしてエンジェルに駆け寄り、その肩を強くつかんだ。
 普段のエンジェルなら即座に振り払うなりするはずなのに、今の反応は違った。何かを恐れるように唇を噛み、不安を隠そうともせずうつむいたままだ。
「わからないというのはどういうことだ? ここで何があった? お前はここで何をした? 落ち着いて思い出せ」
「あ、ああ……ジェリコを整備して、ここに乗り込んで……。
 でも、撃ち合ってるうちに何か不思議な気分になってきて……全身の感覚が今までにないくらい鋭くなって、こいつらの動きがひどく遅く見えた……だから、目に付いた奴から撃っていって……」
 言いながら、足元に倒れた恰幅のいい黒服と、自らの左手に握られた《天使の銃》とに、交互に視線を落とす。
「……でも、この男を撃った覚えはないわ。
 ふと気がついたら照明は消えていて、私は抜いた覚えのないこれを左手に握っていて、あんたがショットガンを天井に撃った音が聞こえて……」
 エンジェルは戸惑いを隠せない表情のまま、ポツリポツリと呟く。いつもの歯切れのよさは全く見えない。
 セルヒオはその場に屈み込むと、足元に横たわる黒服の全身を素早く見定めた。奇妙なことに気づき、眉根を寄せる。
 出血が全くない――他の屍はどれも大量の血を流しているのに、この男だけ銃で撃たれた形跡がないのだ。足で引っくり返してみたが、背中側にも傷や出血はなかった。
 ショックによる心臓麻痺とも考えられるが、ではそれほどのショックを与えられた原因とは何なのか。突入の直前に聞いた悲鳴はこの男が上げたものだったとすると、最期の瞬間によほど恐ろしいものを目にして、断末魔の叫びを上げたということになる。
 疑問を抱いたまま立ち上がったセルヒオが、再びエンジェルに問う。
「とにかく銃をしまえ。俺が入る直前に、この中で何か青白い光が輝くのが見えた。お前はそれも覚えていないのか?」
「青白い光? ……わからないな」
 セルヒオに言われてようやく、エンジェルはのろのろとした動作で《天使の銃》を右のショルダーホルスターに戻す。
「話は後で詳しく聞く。ともかくここを離れ――」

 ギシ、ミチミシィッ……。

 エンジェルの肩を押して外に出ようとしたとき、出し抜けに不穏なきしみ音が天井から降ってきた。
 何事かと見上げたセルヒオの顔に、細かな錆のかけらがパラパラと降り注ぐ。
「――まさか!」
「な、何、いったい!?」
 身を固くするセルヒオと狼狽するエンジェル、二人をあざ笑うかのように、工場の奥の壁が耳障りな破砕音を立て始めた。
 壁を支える柱に無数の亀裂が走り、強度を失って部分的にグシャリと潰れる。屋根の重みを支えられなくなった柱と壁が内側にたわみ、スレートの破片がいくつも空中へ弾き出された。
 セルヒオの脳裏をよぎったのは、大量の粉塵を巻き上げながら地面へと落下していく高層ビルの爆破映像。
「崩れる! 逃げるぞ!」
 一番近いガラス窓へ走るよう、大きな身振りでエンジェルを促すセルヒオ。その間にも天井からはさらに無数のかけらが降ってくる。
「セルヒオ、あんたも早くうわっ!?」
 走りながら後方を振り返ったエンジェルが、血溜まりに足を滑らせて横ざまに倒れた。
「急げ!」
 セルヒオは迷うことなくディフェンダーを放り捨てると、エンジェルの手を取って引き起こす。そのまま猛然と走った。
 ほんの1秒前まで二人が立っていた場所に、水銀灯が傘ごと落下してきて音高く砕け散る。
 屋根の梁もゆがみ、ベキベキという破砕音はいまや工場の壁全体から間断なく鳴っていた。
「くっ!」
 破片が身体に食い込むのを覚悟で、セルヒオはエンジェルの手を引いたまま身体ごとガラスに体当たりする。
 ついにすべての柱が重量に耐え切れなくなり、脆い壁を圧壊させながら巨大な屋根が丸ごと落下してきた――。

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