tg2.gif

■堕ちた天使の舞う夜に:長良川広久さん作

第3章 私のことは忘れてくれたら嬉しい

【2】

 セルヒオとミジィが『ロングワインディングロード』で顔を合わせていた、ちょうど同じ頃。
 北斗は〈天使の銃〉の調査を一旦中断して、今まで来たことのない場所に足を伸ばしていた。
 彼の勤務する警察署は港区にあるが、夕暮れごろに仕事が上がってからすぐに電車に乗り北へ。東大やお茶の水大などの名門大学、小石川植物園などを抱える文京区へ向かい、静かに降り続く春雨の中を、傘に身を隠しながらやや早足で歩いていく。
 あらかじめ聞いていた最も分かりやすい目印、東京カテドラル・聖マリア大聖堂を通り過ぎると、ようやく目的地が見えた。
 小ぢんまりと静かなたたずまいを見せる一軒の店。入口上の看板にはこうある。

    タロット・西洋占星術・各種グッズ販売
     Jenifer Ling's “Clair de Lune”

「ジェニファー・リンの占い屋『クレール・ドゥ・リュヌ』……ここで間違いないよな」
 確かめるように独りつぶやくと、北斗は「臨時休業」の札がかかった木製の扉の前に立った。
 トン、トトン。――2秒待って、トン、トトン。
 電話で聞いた通りのリズムでドアをノックすると、固く閉ざされていた扉が少しだけ開いた。
「こんばんは、ギルドメンバーの方ね。ご用件は?」
 わずかな隙間から、女の声。しっとりと落ち着いた低めの声は、耳にした男をとらえて放さない妖艶な響きを伴っている。
「え、ええと、エレーヌさんのいるギルドってこちらですよね? 今日はこちらにいるって、電話で聞いたんですが」
 その声が持つ雰囲気に呑まれてか、なぜか敬語になってしまう北斗。
 店の中の女は、そんな北斗の慌てようを耳にして、クスリと小さく笑った。それと同時に人が通れる幅まで扉が開き、真っ暗だった店内に明かりがともる。
「ああ、あなたがエレーヌの彼? 初めまして、歓迎するわ。ようこそ、ギルド『クレール・ドゥ・リュヌ』へ」
 クスクスといたずらっぽく微笑みながら北斗を招き入れたのは、つややかな黒髪をボブカットにまとめた東洋系の女性だった。
 黄色人種とは思えないほど白い肌、磨きぬいた黒曜石のように濡れ光る瞳、薄く塗られた真紅のルージュ。しかし目鼻立ちは東洋系とは思えないほどはっきりとしていて、微妙に上目遣い気味の目元がエキゾチックな色香を感じさせる。
 シンプルな紫紺のナイトドレスに黒を基調とした薄手のストールをまとい、アクセサリーの類は一切身につけていない。占い師というと奇抜な格好でそれらしく見せようとするまがいものも少なくないが、北斗の前に立つ女性にはそういった虚飾性が全くない。逆にその飾らない装いが神秘的な印象を与えさえもする、そんな女性だった。
 アンティークなランプの光に照らされたその顔を見て、北斗は何かを思い出したように一つうなずく。
「ジェニファー・リン――そういや、署の若い女の子たちが話してたな。
 今や女性誌の占い特集には欠かせない存在となってる、正体不明のカリスマ占星術師……。
 あなたみたいな有名人も、裏ではギルドメンバーだったりするんですね」
「あら、有名人だったら私なんかよりもっと有名な子がいるでしょう? アイドルの上原舞衣とか。
 それにカリスマとかなんとか持ち上げられても、嬉しいとは思わないわ。所詮ジェニファー・リンなんて、自分でつけた仮の名前だし」
 ストールに覆われた細い肩をすくめて、ジェニファーはどこか自嘲気味に小さく微笑む。
 それほど広くはない店内。左右の壁は何段かに分かれた木の棚になっていて、様々な種類のパワーストーンや護符らしきものが丁寧にレイアウトされている。値札や説明書きが可愛らしい丸文字で手書きされているところからして、明らかに10代から20代の若い女性をターゲットにした店だ。
「それにしても、エレーヌがここに彼を呼ぶなんて、20年の付き合いの中でも初めてのことよ。
 あの子、ギルドの仕事をしてるところはあまり人に見せたがらない子なんだけど――フフッ、あなた、よほどエレーヌに気に入られてるのね」
「そ、そんなことないですよ……って、今なんて言いました? 『あの子』ってどういう……」
 北斗の疑問の声が聞こえていなかったかのように、ジェニファーは店の奥を仕切っている厚いカーテンの端をめくり、その向こうに呼びかけた。
「エレーヌ、お待ちかねの彼が来たわよ。今日のお仕事はもういいわ、あとはふたりでごゆっくり」
 いかにも意味ありげに言ったジェニファーがクスリと含み笑いを漏らしたのと、カーテンの奥でガタンと何かが引っくり返る音がしたのは、ほぼ同時だった。
 ややあって、眉根を寄せてムッとした表情のエレーヌが奥から顔を出す。いつものように飾り気のないスーツ姿であるところを見ると、職場――表の仕事は都内のインターナショナルスクールの教師である――からそのままこちらに来たのかも知れない。
「そうやって人をからかうのはやめにしてもらえない、ジェニファー。どういう意味なの、『ごゆっくり』って」
「さあ、エレーヌの好きに解釈したら? とりあえず、愛しい彼の前でそんな不機嫌な顔してるのは女としてどうかしらね、ウフフ」
「……ジェニファー、あなたって……まったくもう」
 やれやれとため息をついて首を振ったエレーヌは、それ以上ジェニファーを相手にせず北斗に向き直ると、照れたように微笑んだ。
「ごめんなさいね。ちょっとパワーストーンの製作に熱が入りすぎて、北斗さんがおいでになっているのにも気づかなかったんです。
 ここにお掛けになって下さい。カーテンの奥はジェニファー秘蔵の魔法書や道具がたくさんあるので、立ち入らないほうがいいかと思いますわ」
「道理で、外から見た感じより中が狭いと思いましたよ。それじゃ、失礼して」
 ちょうど占い師と客のように、普段ジェニファーが仕事に使う小さなテーブルを間に挟んで座るふたり。
「じゃあ、お邪魔虫は奥に引っ込んでるわ。――声は聞こえてるから、ふたりっきりだからって変なコト考えちゃダメよ、彼氏さん?」
「いい加減になさい! ……はあ……」
 カーテンの奥に消える直前、そう言いながら含みを持たせた目線を北斗に送ったジェニファーを、頬をわずかに赤く染めたエレーヌが叱りつける。しかしジェニファーは意に介した様子もなく、楽しそうにクスクスと笑っていた。エレーヌは思わず額に手を当てる。
「……なかなか大変なギルドマスターですね、エレーヌさん」
「あの性格には苦労させられますわ……こと魔法や呪いに関する情報収集能力にかけては、頼りにして間違いはない人なのですが」
 半ばあきれたようにもう一つため息をついたエレーヌだったが、ふとその顔が真剣なものに変わる。
「ところで北斗さん、電話ではなくこうして顔を合わせて私に聞きたかったことというのは、いったい何です?」
「ああ、そうでした。実は……セルヒオのことで、どうしても気になることがあるんですが」
 セルヒオという名を聞いて、エレーヌのアイスブルーの瞳がわずかに細められる。警戒されているなと感じつつも、北斗は続けた。
「この前『プリンキャッスル』でちょっとお話をした時のこと、エレーヌさんも覚えてますよね?
 エレーヌさんが何か……『ファントム』がどうだとか言った途端、あいつものすごい剣幕でエレーヌさんを睨みつけて……。
 その瞬間までは、たとえ戦闘中であってもただの一度も感情のかけらすら見せたことがなかったのに、ですよ。
 普段の鉄面皮と、理由もない突然の逆上……エレーヌさんはあいつを知ってるみたいですからあえて言いますけど、あの様子はどう見ても普通じゃありませんよ。いつあんな風に爆発するかわからないんじゃ、落ち着いて共同調査もできません」
「……おっしゃる事はよくわかりますわ。
 私としても、もし北斗さんが今後もセルヒオと共同で〈天使の銃〉の調査に当たるのならば、ある程度のことはお話ししておかなければと思っていたところですから」
 テーブルに視線を落とし、硬い表情でそう答えるエレーヌ。普段は柔らかなその声には、哀しむような響きがかすかに混じっている。
 エレーヌはそっと両手を組み合わせてテーブルに置くと、記憶の糸を手繰るようにゆっくりと語り始めた。

「セルヒオがメキシコからこの日本に来たのは9年ほど前、24歳の頃のことになりますわね。
 首都警察の特殊部隊から、日本に駐在する政府要人付きのシークレットサービスに抜擢されたのだそうです」
「9年? ……てことは、俺より年上なんですか? てっきり20代だと思ってました」
「それは、北斗さんがあまり外国人を見慣れていないからだと思いますが……まあ、確かに若く見える風貌ではありますわね。
 ともかく、そうして東京で暮らすうち、セルヒオはとある日本人の女性と知り合い、やがて婚約を交わすまでになりました。
 ですが……5年前のあの事件が、セルヒオの運命と人格とを大きく狂わせてしまったのです」
「あの事件というのは……?」
 組み合わせた両手に、エレーヌは無意識のうちに力を込めていた。血色を失い白くなった指先、憂いに満ちたアイスブルーの瞳――セルヒオの話をしているのに、まるで自分の身に降りかかった不幸を語っているようだと、北斗は思った。
「彼は28歳の誕生日と、待ちに待った挙式の日を間近に控え、婚約者の実家を訪れていました。
 婚約者の両親は、初めの頃こそ遠くメキシコから訪れた男性と自分の娘が親しくすることに不安を隠さなかったようですが、2人の熱意にほだされ、いつしか結婚を後押しするようになっていたと聞いています。
 きっと、とても和やかで温かみに満ちた晩餐だったことでしょう。
 ……ですがその幸福は、愛情という概念すら知らぬ乱入者によって無残に引き裂かれてしまったのです」
 心の痛みをこらえようとするかのように、エレーヌは胸元のロザリオを細い両手に包み込む。
「そこに現れたモンスターは、野生のライオンを二回り以上大きくしたような凶悪な魔獣だったと聞いていますわ。
 その魔獣は、あろうことか家族全員が集まっていたその家に突然押し入ってきて、血に飢えた爪と牙を振るったのです。
 SSとして対人戦闘の訓練は欠かさず積み重ねていたセルヒオも、その頃はまだギルドの存在を知らない一般人です。自然界の生物の範疇を超えた魔獣に立ち向かう術など持ってはいませんでした。
 要人警護の任務中であれば、非合法を承知で拳銃や特殊警棒などを携帯していたのでしょうけれど、プライベートの祝いの席ではそんな武装をしているはずもなく……目前で繰り広げられる殺戮を、どうすることもできなかったのです。
 そして、異変を察して駆けつけたギルドメンバーたちが家に踏み込んだときには、既にセルヒオ以外の全員が血の海に沈み、物言わぬ骸に変わり果てていたと……」
「……そうですか、そんな事が……」
 部屋を満たす、重い、重い沈黙。
 10秒ほどもお互い黙りこくったまま、ただ手元のテーブルに視線を落としていた。
 踏ん切りをつけるように大きく息を吸ったエレーヌが、それをため息に変えて吐き出し、再び口を開く。
「結局、魔獣はどこから出現したのか不明のまま、ギルドメンバーたちによって処分されました。
 事件は不可解かつ残虐な一家皆殺しの殺人事件という形で世間へと伝えられ、セルヒオはその場に存在しなかったことになり、事件の真相は社会の裏側へと隠匿されたのです。
 北斗さん、あなたがギルドに入る前の事件ですが、刑事さんならば覚えておられませんか? 5年前、ワイドショーでひどく騒がれ、都内のみならず日本全国を戦慄させた『謎の一家惨殺事件』を」
「ええ、よく覚えてますよ。結局捜査は進まず、迷宮入りになってる事件ですから。そうか、あれがセルヒオの……それで?」
「事件直後、ギルドに協力する病院へと秘密裏に運ばれたセルヒオは、出血多量による生命の危機をかろうじて乗り切り、数日後に意識を取り戻しました。
 ですが、愛する人とその家族が皆殺しにされ、あまつさえそれに対して抵抗することすらできなかった自分だけが生き残った――いえ、生き残ってしまったと知ったときの彼の絶望は、どれほど深いものだったでしょうか……。
 その日を境に、それまで真面目で誠実な好青年だったはずのセルヒオは、全くの別人へと変わってしまいましたわ。
 異常なまでに無口で、全く他人とのコミュニケーションを図ろうとせず、どんな時でも全くの無表情を保っていながら、瞳の奥には常に暗い炎を揺らめかせている……不気味、あるいは狂的としか形容しようのない人物へと……」
 北斗には知る由もない過去を、哀しみに満ちたアイスブルーの瞳に映しながら、エレーヌは静かに語り続ける。
「傷の癒えたセルヒオは、真っ先に彼を助け出したギルドメンバーの所に押しかけ、この東京に存在する闇の世界、そしてそこにうごめく化け物や裏で糸を引く悪しき存在のことを、根掘り葉掘り聞き出したそうですわ。
 そして彼は、狂気じみた執念でギルドの各方面から武器弾薬を、特に自身が得意とする拳銃を中心とした銃火器類をかき集めて、自らの手で魔物を狩り始めたのです。
 各種銃器を縦横無尽に操って戦いながらも表情一つ変えず、しかしその瞳には知性を持った人間にはあり得ないほどのすさまじい憎悪と殺意とをみなぎらせ、敵を完全に沈黙させるまでは何があっても攻撃を止めない――セルヒオのそんな様子を見たギルドメンバーたちは、誰ともなく彼の名を口にすることを避けるようになり、代わりに『ファントム』と呼び始めたのです。
 肉体は生きていても、その魂は既に婚約者と共に死んでしまっている、それでもなお彼の『亡霊』が肉体を操って終わりのない復讐を続けているという揶揄を込めて……」
 沈痛な面差しでうつむき、言葉を切ったエレーヌ。
 だが北斗は、それでもさらに問いを重ねた。まだ、肝心なことを聞いていないからだ。
「それはわかりました。でもエレーヌさん……あなた自身は、セルヒオとどうやって知り合ったんですか?
 どうして、全くの他人のはずのセルヒオを、まるで自分のことのように心配しているんです?
 もちろん、エレーヌさんがとても優しい女性(ひと)だってことはわかってるつもりです。でも……」
「はいストップ。そこからは私が答えるわ。エレーヌは当事者だから、中立の立場で話すことができないもの」
 北斗の言葉を途中で遮ったのは、カーテンの奥から姿を見せたジェニファーだった。片手に持った小さなトレイに3個のティーカップを載せている。
「ジェニファー、もう4年も前のことなのよ。私だって冷静に話くらいできるわ」
「いいえエレーヌ、冷静かどうかはともかく、あなたが話すとセルヒオ寄りになり過ぎるわ。
 それに自分が責任持って引き受けてるメンバーの話だもの、私にも少しぐらい話させてくれてもいいでしょ? ギルドマスターとして、ね」
 顔を上げて抗議するエレーヌを柔らかく、しかし有無を言わせず黙らせると、ジェニファーは北斗たちの前にカップを置いた。細く立ち上る湯気に混じって、ハーブティーの爽やかな香りが北斗の鼻をくすぐる。
「どうぞ、彼氏さん――いえ、エレーヌがイヤな顔するから、私も『北斗さん』と呼ばせてもらうわね。
 普通のハーブティーに薬草もブレンドした、精神を落ち着ける効果のあるお茶よ」
「あ、どうも……でも俺、今でも普通に落ち着いてるつもりですけど」
「これから頭にくること話すから、その予防よ。私自身、この件は話すたびに本気でムカついてくるくらいだもの。
 私、イラつくと変な具合に魔力が暴走しかねないから、こうして自分の分も用意したの」
 店の側面の棚に軽く背をもたせかけて、ジェニファーは左手のカップの中身をすする。妖艶に微笑みながら北斗とエレーヌをからかって遊んでいた先程とは違い、そのエキゾチックな美貌はやや憂いを帯びて引き締まっている。
 その間、エレーヌは何か物問いたげな視線で、立ったままハーブティーをすするジェニファーを見上げていた。
 やはりセルヒオのことは自分で話したいのだろうが、ジェニファーは頑として譲らない。こちらも言葉ではなく無言の視線で、エレーヌを牽制している。
 温かく香り高い一杯でも北斗たちの重苦しい雰囲気がほぐれてこない中、ジェニファーは軽く咳払いして自分に注意を向けさせた。
「じゃ、心の準備はいいかしら、北斗さん?
 エレーヌとセルヒオが出会ったのは4年前――今エレーヌが話したセルヒオの婚約者の事件から、ちょうど1年ほど経った頃のことよ」

<<     >>