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■堕ちた天使の舞う夜に:長良川広久さん作

第3章 私のことは忘れてくれたら嬉しい

【1】

 ナイトクラブでの一件から10日あまりが過ぎ、暦は既に4月。
 だが歓楽街の一件以来、エンジェルの足取りは完全に途絶えてしまっていた。
 先日エンジェルが襲撃した店を含め、例のマフィアの拠点とおぼしきいくつかの店には「流血を未然に防ぐ」という名目で警察官が配置された。だが警察の厳重な警戒を知ってか知らずか、エンジェルはただの一度も姿を現していない。
 その一方で、マフィアの構成員たちは相変わらず血眼になって、日夜を問わず総動員態勢で都内をうろつき回っているらしい。つまり〈天使の銃〉はマフィアの手に戻ってはおらず、エンジェルも死んではいないということになる。
 そして、この一連の事件に関する表の警察の動きは、先進国の中でも高い検挙率を誇ってきた日本警察にしては信じられないほど鈍い。
 発端となった闇オークション会場の事件、エンジェルの仕業と思われる港の倉庫での殺傷事件、そして歓楽街での銃撃戦――どれも一応捜査本部は設置されているものの、手榴弾まで使われた殺傷事件を捜査するにしては明らかに人数が少なく、国は違えども元警察官であるセルヒオの目から見ると、むしろ迷宮入りになるのを待っているようなおざなりな捜査態勢だとしか思えなかった。
 共にエンジェルを追うようになって以来、数日おきに定期連絡を交わしている北斗は、電話の向こうでこう漏らしたものだ。
「どうも上の方に、いろんな方面から有形無形の圧力がかかってるみたいでね。現場がいくら動きたくても、何かしようとするたびに手足を縛られて、まともに捜査ができない状態だよ。俺も現場の一員だけど、本当にうんざりする。
 まだ捜査では行き着いてないが、理由は間違いなく、あの闇オークションだな。あれを開催したのはアメリカ系の組織でも、参加したのはほとんどが日本人の大金持ちや権力者――俺たちが真面目に捜査を続ければ、必ずそこに行き当たる。そんな所にいたことが公表されれば、政治家は即失脚、事業家も社会的信用を失って再起不能だ。だから必死になって妨害にきてるんだろう。
 日本の警察ってのは束縛の厳しい縦社会だからな。いくら骨のある刑事でも、ドラマみたいな独断行動はできない。上層部にダイレクトに圧力がかかると、もうどうにもならないんだ。
 ――俺が刑事とギルドメンバーを掛け持ちしてる理由の一つに、そういう閉塞した状況をなんとかできたらってのもあるけど、上手くいかないもんだ」
 そして肝心の〈天使の銃〉そのものの情報についても、これまでに広がっている噂がさらに尾ひれをつけて巡ってくるだけで、信憑性のある情報は全く入ってこない状態だ。
 セルヒオも北斗も、この事件だけに構っていられるわけではない。最近の東京では、様々な要因が重なってギルドメンバーの出動が必要となる事件が異常に多発しているため、そうした事件の助っ人に駆り出されることもたびたびある。表の仕事とメンバーとしての裏の仕事、両方の忙しさに振り回され、エンジェルの行方についての調査は棚上げされたままになっていた。
 そんな中で、セルヒオは久しぶりに『ロングワインディングロード』へと足を運んだ。
 理由は二つある。一つは〈天使の銃〉事件の経過報告のため。もう一つは、最新入荷の銃器をチェックするためだ。
 その日は朝から雨が降り続き、4月とは思えないほどに肌寒かった。少し雨に濡れたセルヒオが店内に足を踏み入れると、髭面のマスター・熊岡が顔を上げ、手招きしてセルヒオを呼びつけた。
「おうアミーゴ、やっと顔出したか。オメーに連絡してえことがあったんだが、電話番号知らねえしよ」
「アミーゴになった覚えはないと言っている。それで、用件というのは?」
「ここんとこ毎日、オメーを探して美人の金髪女がここに来てんだ。
 ちょうど今ごろの時間に独りでフラッと現れちゃ、ずいぶんと遅い時間まで粘って、タクシーも呼ばずにどこへともなく帰ってくって繰り返しでよ。
 どうしてもオメーと話がしたいって言ってんだが、心当たりあんのか?」
 カウンター席に腰掛けながら、セルヒオは怪訝そうに眉をひそめる。といっても、注意して見ていなければわからないほどごくわずかにだが。
 真っ先にセルヒオの脳裏に浮かんだのは、エンジェルの象徴ともいえる背中までの長いブロンドだった。
「ないわけでもないが……金髪というが、髪の長さはどのくらいだった? 背中にかかる長い髪か?」
「いや、ちょっと傷み気味のストレートセミロングだ。背中にかかるってほど長くはねえな」
「なら違うな。それくらいの金髪の女性なら知り合いにいなくもないが、彼女なら電話をかけてくるはずだ」
 少なくともエンジェルではない。エレーヌとはこの前のプリンキャッスル以来話をしていないし、最近は電話をすることも向こうからかけてくることもなくなった。
「そうかい……そりゃ妙な話だな。ま、しばらく待ってみろや、あの様子だったら間違いなく今日も来るだろうからよ」
「だったらその間にメニューを見せてくれ。そろそろ新しいものが入る頃だろう」
「よくわかってんじゃねえか。おら、こっから適当に選びな」
 セルヒオの催促に、熊岡はカウンターの下からA4サイズのコピー紙を取り出し、無造作にセルヒオの前に置く。
 ワープロ打ちの素っ気無い文字が並ぶそれは、ギルドメンバー向けの「裏メニュー」、つまり現在取り扱っている銃器のリストだった。
 セルヒオは早速メニューを手に取り、書かれた文字を目で追いながら熊岡に次々と尋ねる。
「マグナムリボルバーはこのクラスまでか。モデル500は無理か?」
「S&Wの『史上最強の拳銃』か? 無理無理、メーカーの生産が追いつかないほどバカ売れの銃だぜ。アメリカ本土ならともかく、日本になんざどう逆立ちしたって流れちゃこねぇよ。44か45のリボルバー、それかデザートイーグル50AEってとこで我慢しとけ」
「オートは作動不良を起こすとその戦闘中は使い物にならなくなる。デザートイーグルは最初から対象外だ」
「相変わらずこだわってんなぁ。ならレイジングブルかスーパー・ブラックホークあたりでどうだ」
「悪くはないな、考えておこう。サブマシンガンやショットガンは? SAT仕様のMP5は入手できるか?」
 メニューと一緒に差し出されたゴールド・テキーラのロックのことも忘れて、セルヒオは10分以上も熊岡とそんなやりとりを続けた。
 ギルドメンバーとしての仕事に使用する銃器は、文字通り自分の命を支えるアイテム。故に選ぶ方も真剣である。
「――で、結局この2丁でいいのか? 知ってるだろうが、ウチは一度注文したら変更はきかねえぜ」
「ああ、これでいい。できるだけ早く頼む」
 一通りの商談が済み、最終的な購入希望品を2丁にまとめたところで、新たに客が入ってきた。
 チラッと目を走らせた熊岡が、小声でセルヒオにささやく。
「おいでなすったぜ。あれが例の金髪女だ」
 その言葉に誘われるように、セルヒオも漆黒の瞳をその来客に向けた。
 傘は手にしていないが、この雨の中を歩いてきたにしては、いかにも高級そうな素材のツーピースはほとんど濡れていない。肩口のあたりに少し水滴の跡があるくらいだ。
 両手には1つずつ、宝石のはまった指輪。細く白い首を飾るネックレスには、惜しみなく細かなダイヤがあしらわれている。
 相当に金のかかった身なりだといえた――だが、見覚えは全くない。肩にかからない程度のセミロングに揃えた髪の色も、エンジェルのような見事なブロンドではなく多少のくすみがあり、黄金色というよりは金茶色とでも形容すべき色合いだった。
 金茶色の髪の女は、カウンター席にセルヒオの姿を認めるや否や、さほど広くもない店内を急ぎ足で横切って近づいてきた。
「マスター、この人がミスター・カレスね?」
「ああ、そうだ。気まぐれなもんでなかなか捕まらなくてよ。さ、好きなだけ話しな。この店は秘密厳守だ」
 女が話すのはネイティブの英語。そして驚いたことに、熊岡も英語で答えた。ただしどこで覚えたのか、かなり地方なまりの強いものだったが。
 隣に腰掛けた女に、セルヒオは挨拶も省いていきなり問いかける。
「俺を探していたというが、何者だ? 用件は?」
「……エンジェルと名乗るブロンドの女を、知っているでしょう。
 彼女の凶行を何としても止めてもらいたいの、ミスター・カレス」
 硬い声で言いながら、思い詰めたように吊り目気味の青い瞳を向けてくる女。
 セルヒオはその視線を目の端で受け止めると、おもむろに熊岡を呼んだ。
「ホット・ブランデー・エッグノッグを」
「……私に? 今は酒なんか飲みたい気分じゃないわ」
「唇が紫色になっている。まずは身体を温めて、落ち着いてから話せ」
 女の細い肩や指先が寒さで――あるいは精神的な緊張のせいでかも知れないが――細かく震えているところまで、セルヒオは見て取っていた。浅黒い顔には相変わらず何の感情も見せていないが、そのさりげない気遣いに、女はわずかに表情を和らげ微笑んだ。
「……そうね、やっとあなたを見つけたと思って、少し気が急いていたわ。ありがとう、ミスター・カレス」

 ブランデー、ダーク・ラム、泡立てた卵、ティースプーン2杯の砂糖、最後にホットミルク。十分にかき混ぜて隠し味にナツメグパウダーを振りかければ、まろやかな口当たりの中にほんのりと酒精の甘い香りが漂うカクテル、ホット・ブランデー・エッグノッグの完成だ。
 湯気の立つタンブラーを両手で包み込むように持ち、ちびちびと口に運びながら、女はゆっくりと語り始めた。
「私は……本名はわけあって明かせないけど、ミジィとでも呼んで。昔、エンジェルからはそう呼ばれていたの」
 missy――英語で「お嬢さん」というほどの意味の、親しみを込めた呼びかけの言葉だ。
「お前はエンジェルと親しかったようだな」
「そう、親しかったわ。……もう過去形になってしまったけれどね。
 エンジェルは私の姉なの。ロサンジェルスで暮らしていたころは、自分で言うのもなんだけど、本当に仲のいい姉妹だった。
 でも、とある麻薬組織と……このトーキョーで出会った〈天使の銃〉の噂が、エンジェルを変えてしまったわ」
 哀しげに頭を垂れ、フラットブラックのカウンターに視線を落とすミジィ。セルヒオは黙ってテキーラを一口含むと、無言で続きを促す。
「USAのどこに行っても、ドラッグで人生を踏み外す若者なんて珍しくない。けれど、エンジェルはとても正義感の強い、友達思いの女性だった……それがいつしか、麻薬組織への強烈な憎悪に変わっていったの。
 あなたがこの街で出会う前から、エンジェルはLA周辺で『正義』を行使して回っていたわ。
 ただその手段は、あなたも知っての通り、あまりにも自分勝手で凶暴なもの……結果的に、組織と警察の双方から追われる身になったエンジェルは、手配が回る前に偽造パスポートでジャパンへ脱出したわ。
 ……いえ、脱出という言い方は正しくないわね。組織がジャパンにも進出を始めていることを知ったからこそ、陸続きのメキシコやカナダではなく、わざわざ地球の裏側のジャパンまでやってきたのだから」
 コクンと喉を鳴らしてエッグノッグを飲み下すと、ミジィはやるせないため息を漏らした。
「そして……ここトーキョーで、エンジェルはあれの……〈天使の銃〉の噂を耳にしてしまったの。
『己の正義に忠実であれ、しからばかの天使が祝福を与えん』――その力があれば自分の正義、ドラッグに人生を、あるいは命を奪われた友人たちの復讐を成し遂げられると、きっとエンジェルはそう考えたんだわ。
 そして計画通りに、彼女は〈天使の銃〉を手に入れてしまった。
 エンジェルの中の『正義』は、もはや他の誰が見ても『狂気』としか思えないほどのものに変貌してしまっているのよ。あなただって、エンジェルと一度でも行動を共にしたことがあれば、わかるでしょう?」
 タンブラーを包み込むミジィの両手に、無意識のうちに力がこもる。
「――それで、俺にエンジェルを止めろと?」
 だが、セルヒオはあくまで冷静に返す。名前以外にも隠していることがありそうなミジィの話を、そのまま真に受けるわけにはいかないからだ。話に耳を傾けるふりをしつつ、その実セルヒオはクールな目でミジィを観察していた。
 ミジィはずっとうつむき気味だった顔を上げ、セルヒオの漆黒の瞳を切羽詰まったようにじっと見つめてきた。
「そう。マフィアに殺される前に、エンジェルをどこか遠くへ逃がしてもらいたいのよ。
 血にまみれた復讐なんかやめて、〈天使の銃〉を組織に返して、それからどこかへ……どこでもいいから組織の手の届かないところまで逃げ延びてほしい。
 もし国外に脱出できたら、このトーキョーには二度と近づかないようにと伝えてもらえるとありがたいわ」
「無理だな」
 セルヒオの無情な答えが出るまでに、ゼロコンマ数秒ほどの時間もかからなかった。
 ロックアイスの溶けかかったテキーラをグイと飲み干して、無機的な漆黒の瞳をミジィに向ける。
「それをエンジェルに提案したとして、素直に受け入れる可能性は全くない。いくら妹の頼みとはいえ、エンジェルは自分の『正義』を貫き通すために、敵とはいえ人間の命を奪うことすら躊躇わない道を選んだ。いまさら簡単に引き返すとは思えん。
 その上今のエンジェルには〈天使の銃〉がある。たとえ噂が噂に過ぎず、ただのアンティークガンだったとしても、その存在が心の支えになっている限り、エンジェルは己の正義の行使たる復讐をやめることはないだろう」
「じゃあ、〈天使の銃〉をエンジェルから取り上げてよ。よくは知らないけど、あなた相当の腕前なんでしょう? エンジェルも確かに素人じゃないけど、その気になれば……」
「俺はエンジェルにとって敵でも味方でもない。復讐を積極的に手助けする気はないが、〈天使の銃〉を奪い取ることで妨害するつもりもないし、その権利もない。第一、もし奪い取ろうとすれば、エンジェルは俺にも〈天使の銃〉を向けてくるだろう」
 あの時、エンジェルははっきりと叫んだのだから――邪魔するなら誰であろうと容赦はしないと。
「そんな……」
 セルヒオは落胆の色を隠せないミジィを気遣うどころか、感情を排した冷たい口調で逆に問い返す。
「そもそもなぜ、お前はマフィアやエンジェルの動向にそこまで詳しい? 一体何者だ?」
 ミジィはすぐに答えず、何かをためらうかのように数秒ほど口をつぐんで……それから、噛みしめるようにゆっくりと言った。
「私は、エンジェルの妹。あなたたちにはエンジェルの方が通りがいいだろうからそう呼んでるけど、もちろん本名だって知ってるわ。
 ……それ以上のことは明かせないから、疑われるのも仕方がないけど……でも、話せる限りの真実は話しているつもりよ」
 慎重に言葉を選びながら語るミジィは、青い瞳にすがるような光を宿して、体ごとセルヒオの方を向いた。
「私には、エンジェルを止めることができなかった。……あの頃ならともかく、今はもう止める資格もないわ。
 だけどあなたは、エンジェルとよく会っているのでしょう? だからあなたならエンジェルを止められると思って、こうして毎日待っていたのよ。
 組織の力は強いわ。単身でトーキョーに潜んでいるエンジェルは、このままじゃいずれ捕まってしまう……けれど、組織が血眼になって取り戻そうとしている〈天使の銃〉を自分から差し出せば、どうにか見逃してもらえるかもしれないわ。
 もう手段を選んでいられる段階じゃないの――お願い、ミスター・カレス、エンジェルを助けて!」
 目に涙さえためて訴えかけるミジィの必死の哀願を、セルヒオは最後まで表情一つ変えずに聞いた。
 やおら目を閉じ、じっと考え込むように動きを止める。
 ――永遠にも感じられるほどの数秒間の後、セルヒオは静かに目を開けると、改めてミジィの瞳をまっすぐに見て言った。
「俺は同業者と一緒に〈天使の銃〉を追っている。あれの所持者がエンジェルである以上、調査を続けていればまたエンジェルに会う機会もあるだろう。
 今のところエンジェルの所在はつかめていないし、会ったところでエンジェルがどんな反応をするかはわからないが、妹がそう言っていたということは伝えておく」
「あ、ありがとう、ミスター……」
「セルヒオでいい。それに感謝されるのはまだ早い。すべてはエンジェルに会ってからだ」
「……いいえ、それでも本当に感謝するわ、セルヒオ」
 どこかぎこちないようにも見えるものの、とりあえず安堵の微笑みを見せたミジィは、小さなポーチから携帯電話を取り出した。
「番号を教えておくわ。何か進展があったら、できるだけ早く連絡して」
「いいだろう。ただし条件がある。
 こちらから連絡するまで、お前はここに姿を見せるな。
 お前が俺たちに語らなかったことがあるように、こちらにも踏み込まれたくない領域というものはある」
「ええ、約束するわ。――エンジェルのこと、くれぐれもお願いね、セルヒオ。
 それと、もしエンジェルを逃がすことができそうだったら、その時にもう一つ伝えて。
 私のことは気にしないで……いいえ、私のことは忘れてくれたら嬉しい、と」
 止むことのない冷たい雨の中、ミジィは再び夜の街に消えた。

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