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■堕ちた天使の舞う夜に:長良川広久さん作

第1章 天使は死の使いだから

【1】

 冬の寒さは峠を越したとはいえ、まだまだ夜中は肌寒さが身にしみる3月の末。
 都内某所の高層ビル、緑色の非常灯が照らすだけの薄暗い非常階段に、黒のスーツに身を固めたセルヒオ・カレスの姿があった。
 この場所に立って既に2時間が経過したが、その間自分の足音以外の物音一つ耳にすることはなかった。しかし同じフロア、セルヒオが立つ非常階段から遠く離れた場所では、政財界や社交界にその名を連ねる大金持ちばかりが集って、豪勢なカクテルパーティが催されている最中だ。
 ギルドからの情報によると、それは単なるカクテルパーティではなく、東京の裏世界で最近急速に勢力を拡大しつつあるアメリカ系マフィアが主催する、大富豪のみを対象にした闇オークションなのだという。
 会場にはこれからオークションにかけられる様々な品物が陳列され、パーティの参加者、すなわちオークション参加予定者が自分の目で現物を確かめられるようになっている。さらにこれ見よがしに厳重な警備をつけ、品物の希少価値を暗に匂わせることで、客の値付け意欲を二重に煽り立てるという仕掛けだ。
 無論、そこに出品される品物がただの美術品や骨董品、あるいは宝石などだったら、ギルドが関与することはない。
 セルヒオがこの闇オークションへの潜入を図ったのは、オークションの一番最後に出品が予定されている、今回最大の目玉とされる品物――〈天使の銃〉と名づけられたアンティークガンについての奇妙な噂を確かめるためだった。

 時間は一週間ほど前に遡る。
 ショットバー「ロングワインディングロード」での射撃訓練を終えたばかりのセルヒオが、地下に作られたギルドメンバー専用のシューティングレンジから店内に戻ってくると、マスターと若い男性客がカウンターを挟んで何やら言い争っていた。
 古くから銃を扱うメンバーの溜まり場となっているこのギルドを仕切るのは、熊岡力矢という壮年のマスターだ。過去の経歴は不明だが、いくつもの魔物との死闘をくぐってきた伝説の男だという話がまことしやかに囁かれており、その眼光で一睨みされたら大抵の人間は物が言えなくなるであろう、圧倒的な迫力を全身から醸し出している。
 セルヒオが奇妙に感じたのは、普段なら気に入らないことがあれば大声で一喝するか、あるいは即刻外へつまみ出すかという対応をするはずの熊岡が、この時だけは周りに聞かれたくないとでも言うように声をひそめ、何度も噛み砕いて諭すように若い男を説得していることだった。
 カウンター席の端から二人のやり取りを見るともなしに見ているうち、若い男は大きなため息をついて肩を落とし、力なく熊岡に一礼すると、グラスの中身を半分以上残したままでとぼとぼと出て行った。
 唇をへの字に曲げて、若い男が出て行った扉をじっと見つめていた熊岡が、ようやくセルヒオに気づいて鷹揚な笑みを浮かべる。
 お世辞にも愛想があるという表現は当てはまらない熊岡の笑みだが、彼と付き合いの長いメンバー以外には、そもそも笑顔を見せるということすらないだろう。彼に気に入られるには、大人の酒の飲み方を知り、射撃の腕を十分に磨くことが必要だ。
「……おう、アミーゴ。どうだ、今日の調子は」
「日によって命中精度が変わるようでは腕のいいギルドメンバーとは言えまい。それと毎回言っているが、あなたとアミーゴになった覚えはない、セニョール熊岡。銃のブローカーとしては信頼しているが、それだけの関係だ」
「ケッ、ったく相変わらずだなオメーは。『今日の調子はどうだ』ってのはそーゆー意味じゃねえし、もうちっと愛想ってもんを持ちな」
 極めて無機的な反応を返したセルヒオを見て、大げさに肩をすくめて苦笑しながら、熊岡は背後の棚に並ぶボトルのひとつを手に取る。
「で、注文はなんだ、セニョール? 例のヤツでいいのか?」
「ああ。いつものテキーラをロックで」
 メキシコシティ出身、日本在住5年強のセルヒオだが、その日本語によどみはない。多少アクセントにスペイン語の響きが混じってはいるが、スムーズに会話が成立するレベルだ。
 熊岡は体格に似合わない落ち着いた手つきでグラスにロックアイスを置き、メキシコ直輸入のゴールド・テキーラをたっぷり注いでセルヒオの前に差し出した。
「しっかしオメーよ、これ以外の酒飲まねぇのか? ポン酒だっていいモンだぜ、なんだって食わず嫌い飲まず嫌いは良くねえ」
「日本でメヒコを感じられる機会は非常に少ない。酒くらい俺の好みで飲ませてもらいたいな」
「そうかい、ま、店の雰囲気壊しさえしなきゃオメーの自由だがよ。意外だな、いっつも仏頂面のオメーでもホームシックになるのか?」
 冗談交じりに問う熊岡から視線を外し、40度のテキーラを水でも飲むかのようにグッとあおるセルヒオ。一口で半分ほども飲み下してグラスを置くと、改めて熊岡に問いかける。
「ところで、先程の男と何を話していた? ずいぶんと落ち込んでいたようだったが」
「あン? ああ、ろくな話じゃねぇよ。オメーが知ったところで、何の得にもなりゃしねェ」
 言外に「できれば話したくない」という意味を匂わせた熊岡の言葉は、セルヒオには通じなかった。
 無言のまま目線で先を促すセルヒオに、熊岡はやれやれと小さく首を振ってから重い口を開く。
「〈天使の銃〉ってヤツの噂を聞いたことあるか、オメー?」
「いや、初耳だ」
 耳慣れない響きに、セルヒオもわずかに身を乗り出す。表情こそ変わらないが、何らかの興味を引かれたのは間違いない。
「ここ1ヶ月くらいの間に、ギルドメンバーだけじゃなく一般人の間にも……っつっても一般社会じゃなくてマル暴とかマフィアとか、銃を扱い慣れてる裏社会の連中の間でだが、とにかくその〈天使の銃〉と呼ばれる正体不明の銃の噂が凄え勢いで広まってんだ。
 外見はどんな形か、威力はどんなもんか、そもそもどこから誰がこの東京に持ち込んできたのかすら、一切不明。
 しかし噂によるとだ、なんでも『銃そのものが正義を貫く力を持ち主に与える』とかでな。
 もしかしたら強力なマジックアイテムの一種じゃねえかとか、いやそんなんガセだろうとか、無責任な憶測が乱れ飛んでやがる。
 さっきの若ぇのはギルドメンバーなりたてのペーペーなんだが、この東京を守るためにその力を手に入れたいとかなんとかほざいて、あきれるくらいにしつこくってよ。何しろ話の中身が中身だ、大声で怒鳴りつけるわけにもいかねぇし、そんな噂に踊らされてねえでまず自分の実力を固めろって言い聞かせんのに苦労したぜ、ったく」
 熊岡の語りに黙って耳を傾けていたセルヒオが、そこで初めて熊岡の目を見て言葉を挟んだ。
「あなたはその噂についてどう考えている?」
「あぁ? 決まってんだろ、ンなもんどうせハタ迷惑なガセに違えねえ。
 天使だの悪魔だのなんざお題目だ。そんな名前がつくのはろくなモンじゃねえ、もし本当にマジックアイテムだったとしてもな」
 熊岡はそこでふと言葉を切り、怪訝そうに眉をひそめてセルヒオの顔を覗き込む。
「おい、オメー……まさかそんなお題目に興味あるってんじゃねぇだろうな?」
「否定はしない。だが、内容を詳しく話したのはあなただ」
「おいおいおい、だから噂と憶測の塊でしかねぇっつってんだろ……本気か? 万に一つ手に入ったとして、そいつで何をどうしようってんだ?」
「あなたのガンブローカーとしての腕を見込んで頼みたい。その〈天使の銃〉を仕入れられるあてはないか?」
 露骨に不機嫌さと警戒心をあらわにした熊岡の眼光と、あくまで感情を押し隠すセルヒオの視線が、真っ直ぐにぶつかり合う。
 ややあって、ゆっくりとカウンターに両手をついた熊岡が、忌々しげに一つ舌打ちをして視線を逸らした。
「もしウチで仕入れたら、目ン玉ひん剥くほどの値段で売りつけてやるとこだぜ。
 ……どんな値段つけたって、どうせどこぞの物好きな金持ちが札束に物言わせて買っちまうんだろうがな。
 オメーは実力はあるが、経歴が穏やかじゃねぇ。だから、できればそんな得体の知れねえブツには近づかねえ方がいいと思うぜ」
「何か知っているのか?」
 熊岡の明確な警告を、セルヒオはあっさり黙殺した。
「……一週間後、その〈天使の銃〉が出品されるって触れ込みの闇オークションが開かれる予定だ。
 言っとくが、正面から買いにいこうったって無駄だぜ。値段どうこう以前に飛び込みお断り、ご大層な『入札資格』がねえ人間は会場に入れやしねえ。
 無理に入ろうとすりゃ即、蜂の巣だ。なんたってオークションの主催は裏社会の住人、人を撃ち殺すことに何のためらいもねえ連中だかんな。
 まあ、買えなくても見るだけでいいってんなら、警備の仕事くらいは口利いてやれないこともねえがよ……」
「ではその方向で頼む」
 明らかに気が進まない様子の熊岡には目もくれず、セルヒオは短くそう言ってグラスのテキーラを一気に空けた。

 ――かくしてセルヒオは〈天使の銃〉のオークション会場に潜入を果たした、のだが。
 会場内部や近辺は、マフィアの構成員と思われる黒服の男たちが完全に固めており、外部から臨時に雇った警備員はすべて会場から遠く離れた通路や非常階段の封鎖に駆り出されていた。
 マフィアの立場からすれば、最重要商品である〈天使の銃〉を誰とも知れないアルバイト警備員に任せられはしないはずだから、当然の処置だろう。とはいえ、オークションにかこつけて〈天使の銃〉の噂を確かめようとしたセルヒオの予定は大きく狂ってしまっている。かといって、うかつに会場に近づけば当然マフィアに怪しまれ、噂を確かめるどころの騒ぎではなくなるに違いない。
 顔にこそ出していないが、内心セルヒオは焦っていた。もうすぐ日付が変わり、オークションが開始される。このままでは、肝心の〈天使の銃〉を目にすることもできずにオークションが終わってしまいそうだ。
 薄暗い非常階段前の通路は、相変わらず靴音一つなく静まり返っている。空気の分子一つ一つすら動くことをためらっているような、完全すぎる静寂が支配する世界。
 手持ち無沙汰のセルヒオは、スーツのポケットから小型のハンドライトとカラー印刷の薄いパンフレットを取り出した。
 パンフレットの中身は、闇オークションの出品目録。このポイントの警備に回される直前、パーティ出席者用に用意されていたものを一つくすねてきたのだ。
 美術品、骨董品、宝石。どれ一つ取っても、最低落札価格からして普通の人間に手が出せる代物ではない。主催者の性質からして、どれもまともな手段で手に入れたものではないだろうから、サクラも交えて値を吊り上げれば儲けは相当な額に上るに違いない。
 だが、セルヒオはそうしたものに一切興味を示さず、迷いなく最後のページをめくってライトで照らした。警備についてから何度も見返したそのページを、改めてじっくりと見る。
 1ページまるごと使って掲載された〈天使の銃〉の写真――それを見る限りでは、武器としての実用的な価値よりは装飾的・骨董的価値に重きが置かれた、単なるパーカッション(先込め式)のアンティークガンとしか思えない。
 くすんだ黒灰色の光を放つ、金属のロングバレル。グリップはやや小さめの木製。
 銃身の中ほどから基部にかけて、鳥の翼を模した精緻なレリーフが施されており、その翼にうずもれるようにして左右に一つずつ、目を軽く閉じて穏やかな表情を浮かべる女性の頭部が垣間見える。
 全体に武器らしからぬ華奢な雰囲気を備えた銃だ。実際に人を撃つための武器というよりは、前近代の貴族が趣味で作らせたような「銃の形をした美術品」という印象を抱かせるシルエットを持っている。
 写真のキャプションは「己の正義に忠実であれ。然らばかの天使が祝福を与えん」という短い文が添えられているだけ。他の美術品などの目録にはもれなくついている出所来歴等の説明が、一切ない。
 どうやら出品する主催者も、本当はどういうものなのかよくわからないまま、とにかく怪しげで貴重そうで高価そうなものなのだと煽っているらしい。
 実際、セルヒオの目から見ても、たとえ正体がわからなくても並の宝石とは比べ物にならないほどの値段がつきそうな、言葉では説明しようのない魅力を感じる。彼自身、写真を見返すたびに、この銃を手に入れたいという衝動が強くなるのを自覚していた。
 あまり光を見ていると、闇に慣れた目が元に戻ってしまう。ライトとパンフレットをしまったセルヒオは、ショルダーホルスターに収めた愛銃ベレッタM92Fの感触をスーツの上から確かめた。
 ――と同時に。

 バァン……! バァゥン……ッ!

 何重にも重なった残響音を伴って、乾いた銃声が通路に響き渡った。

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